性別の話 〜インターセックスから考える〜

性的少数者には、私のような同性愛者、両性愛者の他に、自分自身の性に問題を抱える人が含まれる。それが性同一性障害といわれる問題を抱える人たちであり、インターセックス(IS)と言われる人たちだ。ちなみにLGBTにISを含めて「LGBTI」とか、他にも「LGBTs」「LGBTQ」とかいろんなバリエーションがあるが、私は意味的に正しいかどうかは置いといて、分かりやすさから「性的少数者=LGBT」という感じで使っている。


インターセックス(IS)について

インターセックスの話の前に、まず性同一性障害の簡単な説明。性同一性障害とは体(戸籍)と心の性が異なる問題。日本の法律ではSRS(性別適合手術)を受けるなどの要件を満たせば、戸籍上の性別を変更することもできるが、この要件の内容1つとっても様々な問題がある。この問題を抱える(乗り越えてる?)人とはお付き合いをしたこともあるし、地元団体Pを通じて知り合った人もいる。

インターセックス(IS)とは、様々な原因により身体的な性が男女どちらと判断できない人たちの総称。医学的には性分化疾患と言われ、60種類以上の症候群、疾患群がある。この「インターセックス」という用語もいろんな見解があるらしいが、現在他に定着している用語が見当たらないのでこの用語を使用することにする。外見上の特徴から戸籍登録をしても、後に(大抵第二次性徴期)反対の性の身体的特徴が発現する場合もある。また、外見上の特徴の変化や心の違和感がない場合は、自分の体のことを知らずに生活しているISの方もいるらしい。

(私はISであることを表明している人とほとんど会ったことはない。六花チヨ氏の漫画「IS」でちょっとだけ勉強した。)

ISの方の場合「体と心の性」とか言う以前に、「体の性自体がどっち?」という問いがある。とは言え、彼らの多くは「インターセックス」という自覚ではなく、「男」か「女」のどちらかの性自認を持って生活しているらしい。なので権利運動に熱心?な同性愛者などとは、ちょっと立ち位置が違うかも。しかし「性別が、ない!」の著者である新井祥によると、心の性はホルモンバランスによって男女どっちにも転ぶようなこともあるとか。こうなってくると「体や心の性を男女で分けること自体に意味がない」と思えてしまう。


あるカップルの婚姻届の不受理証明書

3月3日に岡山のあるカップルが婚姻届を提出し、不受理証明書を受け取ったことがニュースになっている。私はFacebookでシェアされた記事(本人ブログ)で知った。このカップルの夫となるべき臼井氏は、戸籍は女性、身体的にはXY染色体を持つ女性型(今はホルモン治療により男性的特徴も発現)、性自認(心の性)は男性。

「男女二元論の呪縛 」(いなかおやこ) ←ご本人のブログ。

この記事の中で、アルゼンチンのジェンダーアイデンティティ法について触れられている。アルゼンチンでは医師や裁判所の同意がなくとも法的なジェンダーを変更できるとのこと。そんな国があるなんて知らなかった。アルゼンチンでは性別適合手術やホルモン治療には医療保険が使えるらしいし、そもそもラテンアメリカで初めて同性婚を合法化した国とか。日本がここまでになるのに、どれだけ時間がかかるのだろうか。アルゼンチンの行政の歩み、今後研究したい。


行政の戦略

以前に地元団体Pで知り合った方が「日本の性別変更の制度は、行政の進歩のように見えてそうでない側面がある」「戸籍上同性の者同士が結婚したければ、この制度に乗れという政府の陰謀という見方もできる」というような話をしていた。むふー、性別変更の要件云々の問題だけでなく「同性婚封じ」なんて見方があるのかー!とすごく驚いた記憶がある。

そもそも「性同一性障害」を病気と捉えることも、制度を変えるための戦略だったという話もある。病気なら政府もなんらかの対応をせざるを得ないし、国民の納得も得やすというわけ。しかし…病気と言っても、高額の治療に保険はきかん。「命に関わらないでしょ?」ってことなんだろうけど、この問題が原因での自殺者の数を考えたら「命に関わるの!」って思う。アルゼンチンを見習え〜。


固定的に「性別」を考える無意味

性同一性障害の自覚がある人でも、全ての人が手術を望んでいるわけではない。社会的には心の性で扱ってほしいと望んでいても、体を変えることに抵抗を感じる人もいる。手術して戸籍も変更するのか(カルーセル麻紀さんとか)、手術はしても戸籍はそのままなのか(はるな愛ちゃんとか)、ホルモン治療だけでいいのかとか。同性愛者という自覚に落ち着いた人の中にも、過去(思春期とか)に「反対の性になりたい」と思ったことがある人は結構いるようだ。

人間の場合は生物学的に雌雄の別があり、それによって生殖が行われる。しかしこれが「生物としての自然の在り方」と思ったら大間違い。地球上の生物で雌雄の別が固定的な種は、実はそれほど多くないらしい。「自然の摂理」はそもそも、性についても多様な在り方を許しているのだ。

行政その他における性別の線引きは、たくさんの人間を管理する必要から生まれたものだと思う。分類は少なければ少ない程、効率よく物事を進めることができる。しかし…もともと多様な人がいるのが自然の状態で、その人間たちが自らのために作った制度ではないのか?制度ありき、人間不在となっては意味がない。


いろんな視点を持つ

物事には大抵いろんな側面がある。多様な視点から眺めることで、それまで見えなかったことが見えたりする。問題を解決するため、屁理屈を捏ねる人を論破するためには、あらゆる視点から物事を捉え、ぐうの音も出ないような切り口を見つけるのも有効な方法に思える。

人が何かを拒絶する場合、大抵「言い訳」を口にする。そこを説得するなら、ディベート術ではないがその「言い訳」を論破してしまえばいい。そう書きながら、大学の「日本語学」の授業で「訪問販売などの勧誘は理由を言わずに断りなさい。理由を言うとそこを突かれるから」と教えられたことを思い出した。同じ戦術を差別問題、権利運動でも使えないだろうか?

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ともみ
私の文章に少しでも「面白さ」「興味深さ」を感じていただけたら嬉しいです。