杜賀 季
短編集です。
思いついた物を徒然に書いております。
今日日、人々が合理主義や合理的な思考に執拗に固執する要因として、背景に貧困という苦しみが有るからだと私は考える。金を稼いだり、利益を得る為には無駄のない思考形態が必要であると、所謂有識者と呼ばれる人達が経済学や経営学等の学術に疎い人々又、傷心した人々にまるでそれが天啓であるかの様に使徒の顔をしたためて伝え、そうしてその託宣を盲目的に信じる人が増加しているように思われる。彼ら、敬虔な信徒達が遵奉している、ある種の自己啓発的なこの理念は、道徳的な観点から意見するならば、利益を得る
あの数分間、私はその男と甚だ対等な関係だった。恩を受けたのは私で、彼は私にとって恩人であったけれども、その2人の間には偽善も疑心も悪計も邪な障害は何もなかった。 あれは確か終日雨が降っていた日だから梅雨の頃にあったのだと思う。その日、私と私の悪友は甲の友人の宅に朝からお邪魔していた。夕方になって、これ以上長居をするのも、と流石に具合悪く、そそくさと支度を始めた。 『それじゃあ、もうそろそろお暇しようかな。お邪魔しました。今日はありがとうね』 『おう、気をつけて。』 友
今年の東京は早春にかっと咲き乱れた桜に彩られ、その桜も早々と来年に向けての身支度を始め悲しく縮こまり、また葉桜へとその様相を変えると同時に薄紅の花弁が地面覆い、風に煽られ、まだ四月下旬だと言うのに、あの薄ぼけた可憐な色が東京に彩られ始めてから私の古ぼけたスニーカーの靴裏に張り付いた花弁は多く見積もって4、5枚と言う具合で、既に忌々しい梅雨の気配が菜種梅雨と共にぺちゃぺちゃと音立てながら早足で向かってきている。 私は四季の中でも春の季節を最も愛している。私をそう思わせる要因が
人生は上手く出来ている。悪いことが起きればその後に少し良いことが起きるし、そのあとは悪いこと、良いこと、堂々巡りである。 だから今日のこの不運も次に起こる幸運の為の試練なのだと考えれば少し心が救われるのだ。 ルガン=ジャネス=アンデルセン (1912〜1979) 僕の住んでいる所(といっても僕はその場所に僕の能力によって住まうことが出来ているという訳でなく、只家族に寄生して存在することが出てきている訳だけれども)はある商店街沿いにある。 日中はちらほらと地元住人達の往来で
ある賞の公募に応募して、その為に11月までに書いた詩なるものを幾つか読み直していた。応募数に制限はないのだけども、読み直していくうちに応募するに値するように思われる作品はたったの数点で、その数点の作品なるものの中でも一つはなんだか読み手の同情を誘うようないやらしいものだし、それ以外のも鵜の真似をする烏というか、形式だけに拘った付け焼き刃の突貫工事、作品を成り立たせる主軸のこれ心許ない気色甚だしく、不細工であった。要するに僕は自身の作品に対する自信が無い。いいものな筈なんです、
寧静な幻想を見ましょうよ 郷愁の果てで待ってるわ 早くきてちょうだいね ブルジョワみたいな夢の中 似合うわ鳳仙花の髪飾り 残光の景色に陰鬱の御手 貴方は似合わないわここは 微笑むなら梅の花の下で今宵は舞って もう少しここに居させてよ 寧静な幻想を見ましょうよ 郷愁の果てで待ってるわ 早くきてちょうだいね ブルジョワみたいな夢の中 似合うわ鳳仙花の髪飾り たまゆらの放埒と優しさと狡猾 私はの心は蒸発する程に高揚して あぁひとひらの紅葉 寧静な幻想を見ましょうよ 郷愁
夜、ふと侘しくなり、出鱈目な詩を求めんばかりに筆をとり、朗らかな空想に耽る。 枯葉だって最後は赤やら黄色やら快活な顔して落ちていくじゃないか。落葉はされど淋しく風はぬるい。 人は皆、利己的に他者を救出せんと発奮するんだ。皆さん本当に自己愛に満ちていらっしゃいます、私も例に漏れずとも。我利我利君。 ニヒリズムというものはつまらんね。あれは愛の乞食がやるものだ。悲しいよ。そういう人は誰かに抱きしめられなければならない。冷酷な事実も冷淡な人も信じたくないね。 ある早朝、鳶に
我らの心は泡沫に 安寧はされど微かなり 典雅かな風がふわふわり 運河を撫ぜる 夏は長い この心とは裏腹に 日々の生活 宙ぶらりん 一日千秋 尋ね人 篤実な此の地にありありて 海鳥は今日も空眺む 愛らしき想いを疑わず 小さき御手に包まれて 沿岸沿いをガタンゴトン とろめく御目 眺む男 千尋の紺 柔和な雲 嗚呼そい伏せまほしう 今尚漂う潮風は 我を運びて労りて 奥歯の影に昆布の香り 惜別の想い 嗚呼遠い 都の空は今日も靉靆
無我夢中だった。渦中、音も視界も触覚も全てが一瞬にして消えた。蓋し僕は死んだのだろう。そう思った。ただ弟が、僕の大切な1人の弟が遠くに行く気がして、追いつこうと、もう一度抱きしめてやりたいと、必死だった。 幼少期はライオンやチーターとかけっこをして遊んで過ごしていた少年、デンダラス=ラー=ボニニヤッチ君。13歳。ケニア出身。難病に罹った弟の治療費を稼ぐ為に世界陸上に出場する決意を決めた。 奇妙!サバンナに視察に来ていたスカウトマン(ルノワール・ドトール、当時35歳、後に怪
ハシビロコウとかけまして朝起きてバナナうんこがいっぱい出た!お腹スッキリ!と解きます。その心はどちらも かいちょう でしょう。 今急にデカい鳥がやって来て襲われて捕まってそのままグワァー!!!って鳥が急上昇して月に居る。 一昨日の水曜日の金曜の夜の去年の春に米騒動が起きたから戒めとしてマグマ風呂に入ってたんだけど、熱すぎてグルコサミンが減ったからインスリン注射して、そしたら覚醒剤だったからカバが出て来て、そしたら海の上に立ってて、視界が全部500人の俺。 時間とか馬鹿
早春の東雲 晩夏の暮夜 晩秋の薄暮 杪冬の明昼、往年の四季に惑わされ醜くも生きてきたけれど、生きる事が人生に於けるプライオリティだというある偉い人の陳述を読んで、それでも四季のあることに感謝しなければならないと思うと、窮屈な気持ちで、僕はやるせなくなります。 早春の東雲 晩夏の暮夜 晩秋の薄暮 杪冬の明昼、冴えない小説の書き出しの為に生涯をかけて製造した銀弾四発を空に向けて放ったような思いである。可能性の芽を自分で潰している。けれども、そうしなければならないのだから、四面楚
春の早朝は翠の匂い 私の心は浮遊し 絡繰の果て 空想の彼の地 亭午、あの華の香りを嗅ぐ 春の吐息 穏やかな優しい心にする香りである 櫻の花は上品だね そめいよしの この名前すら気品があるよ 薄紅 清楚可憐 静謐なる少女 香り薄し それも良きかな 優美なり 顔を熱らせながらの善行 少女が席を譲る 平静を取り繕い 厳粛な顔 しおらしい つつましい老夫婦 しわくちゃ笑顔 仁愛か 我々が最も愛すべき性質はこの車両に有るのだ 罪伴わぬ善行 私はそれを守る為に全てを
団子虫を殺したことがあります。今から私の足元の側を蠕動するこの愛らしい弱き生物を踏み潰すのだと思ったら、酷い高揚感に包まれました。好奇心を逆撫でられました。片脚を上げました。永遠とも思えるほどのその刹那、自身の躊躇いを幾度も察しました。コンクリートに焦茶色の染みが出来ました。蟻を殺した時よりも深い罪悪感を感じました。何も変わった事は起きませんでした。団子虫が粘着質の死骸に成りました。靴裏が汚れました。私は自身が極悪人に成った様な気がしました。慄然としました。 その日を境に私は
嗚呼、いつくしや厳島 二度目の逢瀬は 杪冬に 枯れた紅葉 憐憫の情 紺の海に千の真珠が落ち 斜陽が皆を照らしだす 熟れた柿の実 目尻の皺 揺蕩う乳房 牡蠣の如し 嗚呼、美しや厳島 いと艶やかな その肌に 醜い愛撫 果たしては 含羞恥辱の狂宴か 我らは正に白痴なり 我の心ここに在らず 嗚呼、悲しきかな厳島 あの子の恋慕は何処へやら 離れる度に醒めゆくわ 寒風沁みる首元に 卑しき傷 はしたなく 霧消しゆくこの想い 旧懐 痛快 愚か也 嗚呼、さもしいわ厳
人間が言葉だけによって感銘せられるということはあまり無い。所謂格言や名言と称されるものは、その述懐を産み出した有識者の影無くしての存在は不可能である。 人間は常に人間に騙される。人間に突き動かされる。人間の放つ言葉によって愛されていると感じ、操られ、傷心し、癒される。 言葉というものは悉く無力である。発言者の度量に常に左右される存在である。 しかし私はその事実が酷く諧謔的で滑稽であるように思うのと同時に、ほぞ悲しいのだ。 以下の文章は私と私の友人がしたためた "名言"である
所謂百姓根性の泥臭い人間の強さよりも、慌てふためきながらも気取って、そうして時折みせる酷い寂寞と弱さの方が、この世の何よりも美しいというのに、世の女性の大半は、その虚実を鋭く見抜いていながらも、前者を選択してしまうんだから、その不可解さが所謂、女心と言うのでは違いませんか。 それが本能によってそうさせているのなら、つまり理性的な人間程、優美であるはずです。