見出し画像

韓国実業野球の歴史と、幻の70年代韓国プロ野球計画

はじめに

 本稿では、1960年代以降に「事実上のプロ野球」として位置づけられていた韓国実業野球と、70年代の、幻の韓国プロ野球計画について取り扱う。
 出典の特記のない箇所については、主として文末の「参考サイト」一覧に掲載したナムウィキ等の記事を参照して執筆した。
 また、韓国実業野球の球団の詳細については、文末のリンク先、ナムウィキ「韓国実業野球/歴代参加球団」を参照されたい。
 なお、日本語における「社会人野球」を韓国語では「実業野球」と呼ぶ。韓国語で「社会人野球」と言った場合、日本における「草野球」を意味する。用語の統一のため、本稿では日本語における「社会人野球」を意味するものとして「実業野球」の語を用いる。

韓国実業野球の歴史(1945年8月15日以前)

 1904年、アメリカ人宣教師フィリップ・ジレットの主導で、韓国初の野球チームである「皇城YMCA野球団」が創設された。これは学生野球チームではなく、日本の実業野球でいうところの「クラブチーム」にあたる。いわば、韓国野球の歴史は、学生野球ではなく実業野球から始まったのである。
 1913年には、皇城YMCA野球団のライバルチームとして龍山鉄道局や五城クラブが創立された。特に五城クラブは当時の韓国野球でトップクラスの選手を揃えており、1914年には第三次東京留学野球チームを相手に1勝1敗を記録したほか、日本人主体の龍山鉄道局からも勝利をもぎ取った。しかし、このころの韓国最強チームは、龍山鉄道局だった。
 1920年代に入ると、朝鮮総督府主導で組織的なスポーツ振興が図られ、1922年にはMLBオールスターチームが、1925年にはシカゴ大学野球チーム、米国女子野球団が訪韓するなど、野球を通した国際交流が活発になった。だが、韓国人選手のプレーする機会は次第に狭められていく。
 1927年9月には「京城実業連盟」が結成された。加盟チームは殖産銀行、朝鮮総督府逓信局、京城電気、龍山鉄道局の4つで、1929年春には京城府庁が加わった。京城府庁は同年の第3回都市対抗野球大会に「全京城」として出場し4強入りすると、1933年と1938年には準優勝、1940年、1942年には優勝を果たした。
 1932年4月1日に朝鮮総督府が「野球統制令」を発し、日本の文部省の認可を受けていない大会はすべて廃止された。「京城実業連盟」は1940年春まで活動したが、その構成チームは日本人主体のものであり、たまに韓国人チーム同士の試合が行われる以外、韓国人選手にはプレーの機会がなかった。
 1941年には朝鮮総督府により野球競技が禁止され、1942年にはすべての球技が禁止された。

韓国実業野球の歴史(1945年8月15日以降~1950年代)

 1946年3月25日、殖産銀行が漢城実業野球連盟創立を宣言した。この連盟には、金融組合連合会野球団、朝鮮運輸野球団、朝興銀行野球団、京城電気野球団、南鮮電気野球団、朝鮮電業野球団、三国石炭野球団、中央実業野球団の8チームが加盟した。
 同年7月3日から、東亜日報主催、朝鮮野球協会主催の「第1回全国地区代表野球争覇戦」がソウル運動場で開催され、ソウル、釜山、大邱、仁川、群山、大田、光州など7都市代表チームが参加した。参加したのは、あくまでも各都市が大会向けに編成した代表チームであり、特定の企業のチームではないが、この大会は事実上の韓国版「都市対抗野球」であった。
 同年7月25日からは漢城実業野球連盟が初めて主催した野球大会である「漢城実業野球創立記念大会」が開催された。この大会は大韓野球協会と自由新聞社が後援し、ソウルクラブ、中央実業、鉄道局、鶏林クラブなど5球団が参加し、中央実業が優勝した。韓国人による、常設チームによる韓国実業野球の歴史は、この大会から始まったと言っても過言ではない。
 9月25日からは「漢城実業野球秋渓一次連盟戦」が開催された。朝鮮運輸、朝鮮電業、逓信局、京城電気、朝興銀行、京城府庁、殖産銀行、鉄道局、中央実業、ソウルクラブの10チームが参加したこのトーナメント戦では、殖産銀行が初代優勝チームに輝いた。
 10月10日からは二次連盟戦が行われ、ジェウクラブを加えた11チームのトーナメントの結果、殖産銀行と逓信局の決勝戦となったが、逓信局の棄権により殖産銀行が二連覇を達成した。この二つの連盟戦の間には、京城電気、南鮮電気、朝鮮電業の3チームにより「電業団リーグ」が行われて人気を博した。
 翌1947年からは、春・秋に分けてリーグ戦が行われた。
 また、1947年8月に、自由新聞社主催で、ソウル運動場にて開催された「第2回月桂旗争奪全国都市対抗野球大会」には、ソウル、釜山、大邱、光州、仁川、大田、群山、全州、木浦、馬山チームが参加し、仁川代表が優勝した。SKワイバーンズが2005年に仁川野球100周年で着用したあと、2014年から再び着用し、SKの「サンデーユニフォーム」を経てSSGランダースに引き継がれている「仁川軍」ユニフォームは、1947年の都市対抗野球で優勝した仁川代表の復刻ユニフォームである。


2005年に復刻された「仁川軍」ユニフォーム
出典:https://i.namu.wiki/i/OuxEoZcQyVv4W7w1RkMWkcFVn5yr7NRn-5ecXOd48qJ57yfbrw_EnD0GFskno94pI1ytwS6FN4_2gAXzJY7jIS01uOnAFd2BIRH3UKuiChQ2QmJDXou6WjYTi0amEOZT9t9rnVY2iNnI857pg5npwIblScnbXPKjNzAE7FnRrb0.webp


 1950年6月25日の朝鮮戦争勃発以後、リーグ戦は中断された。しかし、朝鮮戦争中も釜山と大邱で連盟戦が行われた。これは、当時の韓国の人々がいかに野球へ情熱を注いでいたかを象徴している。
 1951年3月14日に国連軍がソウルを再奪回し、以後38度線付近で戦線は膠着した。
 1953年3月に陸軍野球団が創設されたことをきっかけに、空軍、海軍、海兵隊も野球チームを創設した。
 1953年7月27日に休戦協定が成立し、休戦状態のまま朝鮮戦争が事実上終結した。この時、軍のチームを除いて残っていたのは、南鮮電気、金融組合連合会、韓国運輸の3チームだけだった。
 1955年に入り、実業野球が復活した。同年4月24日からソウル運動場で行われた春季連盟戦には、金融組合連合会、韓国運輸、大韓民国交通部、南鮮電気、陸軍の5チームが参加した。
 京郷新聞社と大韓野球協会の共同主催の「白虎旗実業野球争覇戦」が同年5月29日からソウル運動場で開催された。第1回大会には南鮮電気、金融組合連合会、朝鮮運輸、空軍、陸軍が参加し、陸軍と金融組合連合会が3勝1敗で共同優勝に輝いた。
 1956年には韓国日報社の招きにより在日同胞学生野球団が韓国を訪問した。
 1959年8月26日には、大韓野球協会代議員大会で実業野球連盟が承認され、金融組合連合会(のちの農業銀行)、大韓民国交通部、南鮮電気、陸軍で構成された実業連盟が発足した。翌1960年には正式に実業連盟の大韓野球協会加盟が認められた。

「事実上のプロ野球」へ(1960年代~1974年)

 60年代に入り、野球を通じた韓国と日本の交流が活発となった。
 1960年11月には、韓国の強豪校である京東高校が日本を訪れ、11月26日の熊本・鎮西高校戦を皮切りに、鹿児島実業、宮崎・大淀、下関商業、山口・桜ヶ丘、姫路南、京都・平安、東京・日大二髙の各校と対戦して、3勝2敗2分の成績を残した。大淀、下関商業に黒星を喫したが、鎮西、桜ヶ丘、日大二髙から勝星をあげた(大島 2006:182-183)。
 1961年10月、新三菱重工名古屋が日本のチームとして光復後初めて韓国を訪問し、全釜山、全仁川チームなどと対戦した。約5,000~7,000人の観衆を集め人気を博したという(加藤 1962:25)。新三菱重工名古屋はこのときソウル、仁川、釜山、大邱で11試合を行い、8勝2敗1分の成績を残した(大島 2006:188)。ソウルで行われた農協との試合を、当時の国家再建最高会議長、朴正煕が観戦した(大島 2006:180)。
 また、この頃から、日本と韓国との間で選手の往来も始まった。
 京都の桂高校3年次在籍中の1959年、第4回在日僑胞学生野球団の一員として初めて韓国を訪れた金星根(キム・ソングン、のちにKBOで監督・コーチを長年務めたほか、日本の千葉ロッテマリーンズ福岡ソフトバンクホークスでもコーチを務めた)は、卒業後の1960年に韓国へ渡った。東亜大学校からスカウトを受け入学したが中退し、1961年に大韓民国交通部に入団して、1969年に引退するまでエースとして活躍した。
 1962年に農業銀行に入団し、同年1月に台湾で開催された第4回アジア野球選手権大会では韓国代表の捕手として活躍した白仁天(ペク・インチョン、はく・じんてん)は、大会を終えて帰国する途中、東映フライヤーズと契約を結び、日本プロ野球における韓国人選手第1号となった(ただし、白は出生時に日本国籍を保持していたことから、外国人選手ではなく日本人扱いである)。
 1962年3月に企業銀行野球団が創立されたことを皮切りに、海運公社野球団、米穀倉庫野球団、商業銀行野球団、仁川市役所野球団、韓国銀行野球団の各チームが次々と創設された。
 1963年にはソウル支庁野球団、第一銀行野球団が創立されるとともに朝興銀行野球団が復活した。同年5月10日から21日まで、東洋レーヨン滋賀が韓国へ遠征し、数試合を行った。東洋レーヨンの韓国訪問には、選抜社会人野球東京大会の優勝チームである東芝、準優勝の大昭和製紙が都市対抗予選日程の都合で辞退を余儀なくされ、選抜社会人野球東京大会第3位の東洋レーヨンに白羽の矢が立ったという経緯があった(著者不明 1963:182)。
 1964年にはクラウンビール野球団が創立された。
 クラウンビール野球団はわずか2シーズンで韓一銀行野球団に吸収合併されたが、クラウンビールの選手たちは毎夜一般人のふりをして街中の酒場に入って、競合他社のビールを注文しては「このビールはだめだ。やっぱりクラウンビールが最高だ!クラウンビールを持ってこい!」などと騒ぎ立てる、今でいうバイラルマーケティングに駆り出されていたという(ちなみに、クラウンビールの流れを汲むのは、韓国国内シェア上位の「ハイトビール」である)。
 チーム数の爆発的な増加に伴って実業野球の人気も高まり、韓国における「事実上のプロ野球」としての地位を確立し始めた。1964年には、断続的な大会開催ではなく、13チームが1チーム当たり48試合を戦う1シーズンのペナントレース制を導入した(大島 2006:268)。『韓国野球の源流』の著者である大島裕史は、この動きを「実質的にセミプロ化であり、このフルシーズン制が、八ニ年に誕生するプロ野球の土台になる」(大島 2006:268)と論じている。
 しかし、同年末には韓国運輸、海運公社、朝興銀行、ソウル市役所、仁川市役所の5球団が解体される(松尾 1965:163)など、決して順風満帆とはいかなかった。
 日本野球との交流はますます活発となり、1965年4月29日から約20日間、大昭和製紙野球部が韓国を訪問して、ソウル、仁川、大邱、釜山などで14試合を戦った(松尾 1965:162)。大昭和製紙は13勝1敗の成績を残して圧倒的な強さを見せたが、この時大昭和製紙が唯一の黒星を喫した相手こそ、クラウンビール野球団であった(松尾 1965:162)。
 なお、2022年からKBO総裁を務めているホ・グヨンは、1970年に商業銀行、1975年から1978年まで韓一銀行でプレーした経験をもつ。いわば70年代に「事実上のプロ野球」だったころの韓国実業野球を知る人物である。

もうひとつの「海峡を越えたホームラン」~60年代に海を渡った在日韓国人選手たち~

 1965年、大昭和製紙に唯一土をつけたクラウンビールは、1963年の第5回アジア野球選手権大会で韓国代表チームを優勝へ導いた金応竜、成基泳、朴正一(山口・早鞆高校出身)らを擁し、投手として金永徳(逗子開成高校→南海ホークス出身、詳細は後述)、そして四国の八幡浜高校出身で、日本の実業チームの「ヤシカ」で活躍していた申鎔均(シン・ヨンギュン、ヤシカでの登録名は「平山茂雄」)らが在籍していた(松尾 1965:162)。
 申はヤシカ在籍時に日本石油との試合で延長25回を投げ切った経験を持ち、1965年の大昭和との第1戦でも1失点で勝利をもぎ取った(松尾 1965:162‐163)。1963年の第5回アジア野球選手権大会では韓国代表のエースとして活躍し、日本を相手に2勝を挙げて韓国代表史上初の優勝に貢献した選手でもあり、韓国運輸、クラウンビールを経て、韓一銀行で1968年までプレーした。1985年に三美スーパースターズ1軍投手コーチに就任したのを皮切りに、サンバンウル・レイダースの監督などを務め、9球団を渡り歩いて、2014年まで13ものポストを歴任した。
 現役時代はアンダースロー投手で、韓国にシンカーを伝えた人物としても知られる。また、ヘテ・タイガースの二軍監督だったころには、林昌勇(のちに東京ヤクルトスワローズで活躍)を指導して育て上げた。
 申鎔均が初めて韓国に渡ったのは、1963年7月のことだった。韓国民団からの要請で、在日僑胞成人野球団へ参加したのである(大島 2006:238-239)。
 この成人野球団には、大学生選手のほかに、元プロ野球選手もいた。それが、多治見工業高校出身で、1960年に1年だけ中日ドラゴンズに在籍したキャッチャーの徐廷利(ソ・ジョンニ、中日での登録名は「山本延儀」)である(大島 2006:239)。彼もまた第5回アジア野球選手権大会の代表メンバーに選ばれ、申とバッテリーを組んで活躍した(大島 2006:243)。
 第5回アジア野球選手権大会での、在日コリアンの選手を主体とした韓国代表チームの活躍は、多くの選手に刺激を与えた。南海ホークスに在籍していた投手の金永徳(キム・ヨンドク、南海での登録名は「金彦任重」)もその一人である。彼は投手の選手層の厚い南海でなかなか先発ローテ入りのチャンスをつかめずにいた。1963年秋に韓国に永住帰国することを決意し、白仁天の紹介で大韓海運公社野球部に入団した(大島 2006:273)。海運公社では翌年からエースで4番として活躍し、48試合を戦う1964年の実業団リーグで、(大島の著作には言及がないが、33試合255イニングを投げ)防御率0.32、打率はリーグ6位となる.300をマークし、ホームランもリーグ2位となる4本を放った(大島 2006:272)。
 金永徳は、1966年には南海ホークスの後輩である内野手の金東律(キム・ドンユル、南海での登録名は「金村清」、1964年に南海を退団)を、1967年には近鉄バファローズでプレーしていた内野手の許宗萬(ホ・ジョンマン、近鉄での登録名は「木村勝男」、1965年に近鉄を退団)を韓国へ呼び寄せた(大島 2006:273)。金東律はチームが再編成されたばかりの第一銀行、許宗萬は韓一銀行に入団した(大島 2006:274)。彼らに続いて韓国へ渡った選手としては韓一銀行のエースとなった投手の金昌中(キム・チャンジュン、阪急・阪神での登録名は「金本秀夫」、1969年に阪神を退団)らがいる(著者不明 1973:161)。
 ちなみに、日本プロ野球の後輩たちを次々と韓国へ呼び寄せた金永徳自身は、大韓海運公社が1964年限りで解散したことを受けて1965年はクラウンビール野球団でプレーしたが、クラウンビールも解散となり、1966年から1969年まで韓一銀行でプレーした。1967年には、25試合登板で17勝1敗、防御率0.49をマークし、54イニング無失点、シーズン10連勝、9月25日には完全試合を達成したほか、ノーヒットノーランも2度達成する大活躍を見せた。現役引退後は1971年に韓国代表コーチ、1982年からOBベアーズ監督、1984年からLGツインズ監督を務めるなど、指導者としても実績を残している。
 関川夏央の名著『海峡を越えたホームラン:祖国という名の異文化』では、福士明夫や新浦壽夫をはじめ、1982年に発足したばかりの韓国プロ野球に挑戦した男たちの生きざまが鮮やかな筆致で描かれている。
 大島裕史の著作『韓国野球の源流 玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス』では、韓国プロ野球発足以前に、日本のプロ野球から、あるいは社会人野球や学生野球から韓国実業野球へ挑戦した選手たちを詳しく取り上げている。活躍の場を求めて、在日コリアンの選手が韓国へ渡るケースは、KBO創立より前、韓国実業野球が「事実上のプロ野球」だった時代からすでにあったのである。
 本節では、日本の社会人野球やプロ野球で活躍した選手に絞って言及したが、興味のある方には大島の著作をお勧めする。
 また、この頃は北朝鮮でも野球熱が高まってきており、1974年にはキューバ代表が北朝鮮を訪問して7試合を戦った。キューバとの試合では、元・大洋ホエールズの波山次郎(ユン・チャラン)が北朝鮮代表のエースとして活躍した。詳しくはリンク先の拙稿をご覧いただきたい。

実業野球リーグ閉幕式で韓一銀行を代表して表彰を受ける金永徳
出典:https://i.namu.wiki/i/tlDOk_qErsloo9qlwMeCG0eAd-zGDJpgmrwC6hk6NXShnfaYLrKYXTx3fX6PsQJgYLs3Sbxv3tqEUPjeBeLviXCeePOj4pbxojj3WzcvIpQoZblR9YicGGu-w1PjDuWnS7oU_pxqEUqlONQAgF_ixqBb4P9F8XWxy40Mr9aITBg.webp

ロッテジャイアンツの誕生と「コリアンシリーズ」(1975年~1981年)

1976年の白虎旗大会に出場したロッテジャイアンツ
出典:https://i.namu.wiki/i/KTCCG3nsl1rMVKdZ5yX2CvA-UIBdVCbc402FmqpIqbDsvW2JCXqnqx_86uAEFImnz4Yq46f7GTixQiu6TAC-egsmvl7Cq9XNpkWOwQB_QHjDFApyI0OidtDgOPc6xGAWBUM4yIa5wHsNcgzWOKnTT8hp-5PkwjFou68gHVXUsX4.webp

1975年~1976年

 クラウンビール野球団が短命に終わった後、韓国実業野球は金融機関のチームと官公庁・公営企業のチーム、そして軍のチームによって構成されてきた。
 こうした状況に風穴を開けたのが、1975年5月に創設されたロッテジャイアンツである。
 当時韓国実業野球では、陸軍、韓一銀行、農協、第一銀行、商業銀行、企業銀行、韓国電力、鉄道庁、空軍の9球団がペナントレースを戦っており、ロッテジャイアンツは10番目の、そして公営ではない私企業チームとして参入することとなっていた(著者不明 1976a:29)。春・夏・秋の3シーズンに分けて合計140試合を戦うリーグ戦(著者不明 1976a:28)に1976年から参加するべく、ロッテジャイアンツはチームの強化のため1976年2月9日から23日までロッテオリオンズの鹿児島キャンプに参加したのである。
 監督の金東燁は韓国電力、海軍で活躍した実業野球の名選手で、日本語が堪能であることからロッテジャイアンツの監督に抜擢された(著者不明 1976a:28)。1975年6月のチーム結成と同時に、漢陽大学の主砲である鄭鉉発(チョン・ヒョンバル)外野手をはじめ、高卒・大卒の有望選手14名をスカウトして陣容を整えていた(著者不明 1976a:28)。
 一方で、ナムウィキの「ロッテジャイアンツ/歴史」の項目には、創立時のロッテジャイアンツが、日本ハムファイターズの投手の宇田東植(チュ・ドンシク)、西濃運輸の投手の宮本好宣(キム・ホソン、のちに日本ハムファイターズに入団し、引退後SKワイバーンズなどのコーチを務めた)、中日ドラゴンズの捕手の金山仙吉三協精機の外野手の星山和久といった在日コリアンの選手をスカウトし、宇田と宮本は入団に至らず金山と星山のみ入団した……という趣旨の記述がある。ただし、金山と星山のロッテジャイアンツ入団を裏付ける情報は日本のウェブサイト上になく、ナムウィキの記述の正確性には疑問が残る。
 日本語が堪能な金東燁を監督に据えた背景には、ロッテオリオンズとの交流のほかにも、日本からの選手獲得を成功させたいという目論見があったものと思われる。
 金監督は、鹿児島キャンプを取材に来た記者の質問に答えて、走る、投げる、打つ力は日本の選手に負けていないが、残念なことに韓国の選手は基本ができていないと語り、張本勲や白仁天といったスター選手も早く韓国へ帰ってきて指導してほしい、という思いを語った(著者不明 1976a:30)。
 この頃、張本勲は日本ハムファイターズからの移籍を模索しており、週刊誌を賑わせていた。1975年には韓国で親善試合を行う日本プロ選抜チームの監督も務めたほか、度々後述のホン・ユンヒによるものと思われる「韓国プロ野球構想」について日本の記者に語り、日本ハムからの移籍先のひとつとして韓国も視野に入れているふしがあった。金監督のラブコールは張本のこうした動きを意識したものであったと考えられる。
 ロッテジャイアンツの創立に触発されて、1976年12月には韓国化粧品(2019年から「HANKOOK COSMETICS」に社名を変更)が、1977年には国営企業の浦項製鉄が野球チームを創立した。浦項製鉄は、1973年に日本高校選抜チームが訪韓した際の親善試合で江川卓から韓国代表選手として唯一ホームランを放った兪大成(ユ・デソン)らがプレーしたことで知られる。
 また、従来は一部の選手が海外からの直輸入で使用していたアルミバットを、1975年以降はすべての選手が使用できるようになったことで長打が増え、実業野球は「事実上のプロ野球」として人気を博すようになった(ただし、この時アルミバットを採用したことが、のちに実業野球選手のプロ野球進出に際し、マイナスに作用することとなる。詳細は後述する)。
 1976年、正式に実業野球リーグに参入したロッテジャイアンツは、春季リーグ3位、夏季リーグ優勝、秋季リーグ優勝と好調な滑り出しを見せた。
 なお、実業野球において初めて公設応援団を組織したのもロッテジャイアンツである。「ロッテエンジェルス」という鼓笛隊を結成した。

ロッテエンジェルス
出典:https://i.namu.wiki/i/KTCCG3nsl1rMVKdZ5yX2Cnz17HcXQBt0lyYjRcnBohy8h4aSC4n0Iq-6c6DqQY8GhBf9AyV4Q9p4Dpzz_tmHtTcwQJj5tgSecZ98xCNp52Xi5zjlQgwS6k-fhAZW4z-Li9ss1BdHTK03Kp20aqA5jZwGJxjX5LYWnM-SbMrut3E.webp

1977年

 1977年2月には、日本のパシフィック・リーグの開催方式を参考に、前期・後期の2シーズン制の導入と、韓国実業野球の頂点を決める「コリアンシリーズ」の創設が発表された。「事実上のプロ野球」という位置付けが、人気面だけでなく運営面からも裏付けられたのである。
 また、1977年から金融リーグ実業リーグ2リーグ制が導入された。
 金融リーグには韓一銀行、企業銀行、商業銀行、第一銀行、農協が参加し、実業リーグにはロッテ、韓国化粧品、韓国電力、鉄道庁、陸軍経理団、星武(空軍)が参加した。
 リーグ戦の開催方法はやや複雑であった。まず、前期リーグ、後期リーグの二つに分けられ、前期・後期の各リーグも一次リーグ、二次リーグに分けられていた。
 前期一次リーグを例にとると、金融リーグ、企業リーグそれぞれの首位チーム同士で決勝戦を行って前期一次リーグ優勝チームを決定する方式であった。
 前期一次リーグ優勝チームと、前期二次リーグ優勝チーム同士で3戦2勝方式のプレーオフを戦って前期リーグ総合優勝チームを決定し、後期も同様の方式で後期リーグ総合優勝チームを決めた。
 そして、前期総合優勝チームと後期総合優勝チームの2チームが5戦3勝方式のコリアンシリーズを戦い、実業野球の韓国チャンピオンを決定した。
 1977年のコリアンシリーズでは、韓国化粧品と陸軍経理団が激突し、陸軍経理団が初代コリアンシリーズチャンピオンに輝いた。
 パ・リーグを模したリーグ戦の整備とコリアンシリーズ創設で興行色を強め、国内最高峰の野球リーグとして「事実上のプロ野球」となった韓国実業野球だったが、いくつかの点でのちのKBOとは異なっていた。
 KBOの各チームには本拠地・縁故地があったが、韓国実業野球には本拠地も縁故地も無かった。
ソウルだけでなく釜山や仁川や大邱でも試合を行なったが、コリアンシリーズをはじめ多くの試合はソウルで行われた。いわば、ソウル一極集中のリーグ構成球団が、全国各地を巡業して試合をしている形であった。
 また、チームあたりの試合数も少なく、1976年は各チーム春季・夏季・秋季の各リーグを9試合ずつ、合計27試合を戦った。ロッテにとっての実業野球ラストイヤーとなった1981年も前期・後期18試合ずつ、合計36試合に過ぎなかった。
これは、現在のKBOの年間144試合はおろか、1982年、KBO初年度の各チームが戦った前期・後期40試合ずつの年間80試合と比べても少ない。11球団2リーグ制という点は現在のKBOの規模感を上回るが、試合数は比較にならないほど少なかった。
 さらに言えば、この頃の実業野球の選手は基本的に正社員であり、月給制で引退後の仕事の保障もあった。個人事業主であり、年俸制で引退後の仕事の保障が十分ではないプロ野球選手とは大きな違いがある(実際、1982年のKBO発足以後も、韓国通貨危機を境に実業野球選手の待遇が悪化するまでは、敢えてプロ野球ではなく実業野球を選ぶ選手がいたほどである)。
 本稿で「KBO以前のプロ野球」とせず、「事実上のプロ野球」としたのは、こうした理由によるものである。

1978年

 1978年には企業銀行野球団が解体され、浦項製鉄が選手を受け入れたことで、金融リーグと企業リーグを統合することとなり、1リーグ制に転換された。前期(一次・二次)、後期(一次・二次)という方式は踏襲された。
 この年から、活躍に応じて選手の年俸を上げる「メリットシステム」を浦項製鉄が導入した。浦項製鉄の動きに刺激を受け、韓国電力も選手の処遇改善の取り組みを始めた。
 1978年のコリアンシリーズでは前期・後期の各リーグの優勝、準優勝チームに出場権が与えられ、前期優勝の陸軍経理団、準優勝の浦項製鉄、後期優勝のロッテジャイアンツ、準優勝の星武が総当たりのリーグ戦を行い、3勝無敗で陸軍経理団がコリアンシリーズ連覇を達成した。

1979年

 11チームをタイガースリーグ(農協、星武、鉄道弘益会、韓国化粧品、第一銀行、韓国電力)とライオンズリーグ(浦項製鉄、商業銀行、ロッテ、陸軍経理団、韓一銀行)にわけ、一次~四次までのリーグ戦を戦った。釜山市長旗争奪第6回全国実業野球大会、国会議長杯、秋季リーグなどを含め、ソウル、釜山、大邱などでリーグ戦が行われた。
 この年から実業野球に「タイトル制度」が設けられ、4リーグ通算タイトルと、個別リーグタイトルが選手個人に与えられた。
 一次~四次の優勝・準優勝チームにコリアンシリーズの出場権が与えられることになり、最大8チームが出場することとなった。実際には下記の7チームが出場した。
・陸軍経理団(一次リーグ優勝)
・星武(二次リーグ、三次リーグ優勝、秋季リーグ準優勝)
・商業銀行(四次リーグ優勝)
・韓国電力(秋季リーグ優勝)
・ロッテジャイアンツ(一次リーグ準優勝)
・農協(二次リーグ準優勝)
・浦項製鉄(三次リーグ、四次リーグ準優勝)
 この年のコリアンシリーズは、星武が2回戦から参加する形のトーナメント戦となり、1979年9月20日にソウル運動場で行われたコリアンシリーズ決勝戦では、リーグ準優勝チーム同士のロッテジャイアンツと浦項製鉄が激突した。序盤に2点を先制するも5回以降に6点を失ったロッテが9回裏に連打で同点に追いつき、延長11回裏にロッテのイ・ヘチャンが放った打球は浦項製鉄のセンターのユン・ドンギュンのグラブをすり抜けてスタンドに入り、これがサヨナラ2ランホームランとなってロッテジャイアンツが球団史上初のコリアンシリーズ優勝を決めた。
 この年に行われた、大学や実業チームが一堂に会する全国総合野球大会(白虎旗)の決勝の映像がある。青いユニフォームが星武(空軍)、白いユニフォームが陸軍である。満員の球場は、当時の実業野球が「事実上のプロ野球」であったことを強く印象づける。

1980年

 1979年のコリアンシリーズが「リーグ準優勝同士の対戦」となり批判を集めたこともあって、1980年は二組に分けてのリーグ戦実施などは引き継がれたものの、前期・後期リーグの優勝チームだけがコリアンシリーズに進出することとなった。この年は前期リーグ優勝の星武と後期リーグ優勝の陸軍経理団が5戦3勝制のコリアンシリーズに臨み、2勝1分で迎えた4戦目、6‐1で迎えた9回裏に6点を取って大逆転サヨナラ勝ちを収めた陸軍経理団が3度目のコリアンシリーズ覇者となった。

1981年

 戦力の不均衡が指摘されるようになり、10チーム1リーグ制で前期・後期リーグを戦った。韓国プロ野球発足前最後のコリアンシリーズとなった今回は、前期リーグ優勝のロッテジャイアンツと後期リーグ優勝の陸軍経理団が激突した。
 ロッテジャイアンツにはルーキーでエースのチェ・ドンウォン(1982年:韓国電力、1983~1988年:ロッテ、1989~1990年:サムソン)、打率.389のホ・ギュオク(1982~1988年:サムソン、1989~1990年:ロッテ、1991~1992年:サムソン)、打率.360で6ホーマーのチョン・ヒョンバル(1982~1986年:サムソン、1987~1988年:青宝→太平洋)がいた。一方の陸軍経理団は23試合に投げたエースのキム・シジン(1983~1988年:サムソン、1989年~1992年:ロッテ)、打率.352で10ホーマーのチャン・ヒョジョ(1983~1988年:サムソン、1989~1990年:ロッテ)らを擁していた。
 まさに、翌1982年から始まる韓国プロ野球を牽引することになる逸材が揃った両チームが戦ったコリアンシリーズは、陸軍経理団の2連勝で始まった。
 ロッテは第3戦を6‐6の引き分けに持ち込むと、4戦目はチェ・ドンウォンが7回3分の1を3失点で勝利投手となり、5戦目はチェ・ドンウォンが7回途中から3イニングを投げてセーブを挙げ勝利。そして第6戦ではチェ・ドンウォンが9回4失点と苦しみながらも打線が6点を挙げて、ロッテジャイアンツがコリアンシリーズ二度目の優勝、韓国プロ野球発足前最後の実業野球の頂点に立った。
 チェ・ドンウォンはコリアンシリーズ6試合すべてに登板し、42回と3分の1を投げ、2勝1敗1セーブ、防御率2.32と、「神様、仏様、稲尾様」もびっくりの活躍を見せ、1981年の実業野球で最優秀新人賞、最優秀選手賞、最多勝利賞の三冠(合計36試合に登板し、206回を投げ17勝4敗、173奪三振)に加えて、コリアンシリーズ胴上げ投手となった。1984年、プロ野球の韓国シリーズで大車輪の活躍を見せる3年前のことであった。ちなみに、この年のロッテはリーグ戦全日程を終えた時点で36試合324イニングを消化し、26勝9敗1分だったが、チェ・ドンウォンは先発・リリーフの別を問わず全試合に登板し、206イニングを投げる鉄人ぶりを見せた。
 (この記事のヘッダー画像は、1981年コリアンシリーズで優勝し、胴上げされるチェ・ドンウォンの姿である。この年のコリアンシリーズからようやくカラーでのテレビ中継も始まった)
 1981年4月に雑誌に載った、チェ・ドンウォンのカラー写真つき特集記事は、こちらのブログでぜひご覧いただきたい。

 1982年2月12日、ロッテジャイアンツはプロ野球チームに転換し、縁故地を釜山に定めた。当初ロッテはソウルを縁故地とすることを希望したが、政権に近いMBCがソウルを強く希望し、リーグ創設を主導したグループが「(これ以上ソウルを希望するならば、ソウルを縁故地とすることを認めないだけでなく)ラッキー金星(のちのLG)を釜山に招聘し、釜山を縁故地とするチームさえ変えてしまうこともできる(すなわち、ロッテはソウルはおろか、釜山さえ縁故地にできないぞ)」とロッテに圧力をかけたために、釜山を縁故地とすることとなった。しかし、このとき釜山を縁故地としたことで、選手獲得における縁故地制度の恩恵を受けて1983年に再びチェ・ドンウォンを韓国電力から迎え入れることに成功し、1984年の韓国シリーズ優勝へと駆け上がるのだから、歴史とは不思議なものである。

KBO発足以後の韓国実業野球(1982年以降)

韓国化粧品のビジターユニを着たソン・ドンヨル
出典:https://i.namu.wiki/i/KTCCG3nsl1rMVKdZ5yX2Ch0R66K3QQD18TjSCzXXSfvGwsIwXMQ7WUoBR9I4rg2vqRqDWRjcOtSODy_dckJ2t1I5ks7KcQOG6yzc4RyU1-aNpQshkDB5G6IgBtu4oDlZMB6XExicU7cJeYWjuRtjlfIACO1YPF69EnL0KxFp7PE.webp


 1982年に韓国プロ野球が発足すると、実業野球のスターたちがプロ野球に進出し、実業野球の人気は急速に衰えた。1993年には農協と商業銀行が、1995年には韓国化粧品と第一銀行が球団を解体した。ちなみに、韓国化粧品は1982年の韓国プロ野球発足に際してプロ野球加盟を強く希望したが、「本拠地はソウル、既存の実業チームの選手団を維持」という要求がプロ野球側に拒否され、参入を諦めていた。
 実業野球が人気を盛り返したのは、1988年ソウル・オリンピック出場のために、カン・ギウン、ソン・ジヌ、チョ・ゲヒョンといった学生野球のスター選手が、直接プロ野球に行かずいったん実業野球チームに入団したころと、1994年に現代フェニックスが創立されたころだけであった。
 ソウルオリンピックに出場するため、高校野球のスターだったソン・ジヌ(のちに1989年から1999年までピングレ→ハンファで活躍し、KBO唯一の200勝投手となる)が入団したのが、1988年1月に発足した「セイル通商野球団」だった。
 このチームは大邱に本拠地を置き、サムソンライオンズと選手獲得競争を繰り広げ、8,000万ウォン相当の選手バスを購入し、勝利した際には選手に手当てを出すなど「プロ級実業野球団」を志向した。わずか4か月の活動期間で、4億ウォンもの資金がチームに投じられていた。しかし、財政悪化で同年6月にチームは解体された。セイル通商という会社は従業員数20人程度で資本金も5,000万ウォン程度と小さかった。しかも、セイル通商野球団の創立と運営は経営者が知らないところで進められており、会社の資金の動きがおかしいことに気づいた経営者が憤慨してチームを解体させ、同時に会社も廃業してしまった。このあおりを食って、ソン・ジヌは無所属の形でオリンピックに出場した。
 1994年の現代グループのケースを見てみよう。当時の現代グループはプロ野球参入を狙って動いていたが、この頃のKBOは8球団制で安定していたことと、当時財閥1位の規模をもち、バスケットボールやバレーボールの世界で圧倒的な資金力のもとにリーグの戦力均衡を破壊するような強豪チームを作り上げていた現代グループの参入を、ライバルのサムソングループ、LGグループが強硬に反対したために、プロ野球入りの夢を絶たれていた。資金難のサンバンウル・レイダースの買収も試みたが、条件面で折り合わず断念した。
 そこで、将来的な「第二プロ野球リーグ」の創設を視野に、1994年に創設されたのが現代フェニックスであった。延世大のエースであったムン・ドンファンに、当時の韓国プロ野球の新人最高契約金であったLGのイ・サンフンの1億8,800万ウォンを大幅に上回る、3億ウォンの契約金と現代アパートの分譲権の提供など実質5億ウォンを超える好待遇を提示するなど、資金力にものをいわせて大卒のスター選手をかき集めた。

創設当時の現代フェニックスの選手たち
出典:https://i.namu.wiki/i/KTCCG3nsl1rMVKdZ5yX2Cq4MkHnHt6a94jUSbocVpkL756T4goMwRoNmWBHUom_5gkXAqbZN60ue0CLr9uBD3pb6F5nT9sffkHAEYxVcHQCH2ojgij4W1hdgnOlRxzpbU10JYX_g7FlcJaTcHS_yKydx-oEPFhe4xZZJXSVgDxE.webp


 1995年から「現代建設」というチーム名で実業野球リーグに参戦したが、同年、太平洋ドルフィンズが資金難のため買い手を探しているとの情報をつかむと470億ウォンでこれを買収し、「現代ユニコーンズ」として1996年から韓国プロ野球に参入した。
 「現代建設」のスター選手たちは、各選手の出身地域のチームから指名を受けて各地のプロ野球チームに散らばっていった(実業野球には縁故地制度がなかったが、プロ野球には縁故地制度があり、現代建設所属選手の指名権を現代ユニコーンズが独占することは出来なかった)。「現代建設」のほうは、1996年からは「現代電子」の名で活動したが、1999年には解散を余儀なくされた。
 現代フェニックス創立に際してかき集めてきたスター選手は、試合数がプロ野球より少なく、しかも金属バットを使う実業野球に染まったことにより実力が低下しており、プロ野球チームに移籍後活躍できた選手はほとんどいなかった。
 全国体育大会や白虎旗などの大会のために実業野球は存続していたが、1997年の韓国通貨危機以降、実業野球チームは減少の一途をたどり、1999年の現代電子の解散時点で尚武(国軍体育部隊:陸軍経理団と空軍の星武が1984年に合併して出来た球団)、第一ガラス、ポスチル(かつての浦項製鉄)、韓国電力、現代海上(現代電子とは別チーム)の5球団しか残っていなかった。
 韓国通貨危機以降、実業野球の選手は正社員ではなく契約社員にしかなれず、しかも月給が50万ウォン程度と安く、実業野球は野球選手の選択肢から外れていった。
 2001年からは、KBOの要請に従って、尚武が実業野球と並行してKBO二軍にも参加し始めた。これは、実業野球とプロ野球の二重登録事例として世界的にも稀である。
 2002年、選手不足を理由に現代海上が解体され、ポスチルも2002年限りで活動を修了した。2003年2月には韓国電力と第一ガラスが解体された、これにより、韓国の実業野球は一度終わりを迎えた。現存する、韓国実業野球の流れを汲むチームは、大韓民国国軍体育部隊所属で、KBOフューチャーズリーグに参戦している尚武フェニックスのみである。
 2009年に韓国実業野球連盟(KBBF)、2010年に韓国実業野球連盟(KABA)が設立されるなど、実業野球復活への動きは何度かあったがいずれも実を結ばなかった。

2019年以降の動き
 2019年にも大韓野球ソフトボール協会の主導で実業野球復活の動きがあり、唐津現代製鉄ブルーカップ天安メティス平昌バンダビス、仁川ウェーブスの4球団が設立された。
 しかし、COVID-19の影響で大会が開催されず、実業野球復活は立ち消えとなった。
 2022年12月には韓国実業独立野球委員会が先述の4球団に全北レイダース大邱ドリームスを加えて発足したが、大会は開催されずに終わった。
 2024年1月には平昌バンダビス、江西ドリーマーズ仁川市民野球団桂陽ビチュオンズが実業野球復活を目指してリーグ戦開催を発表したが、これも開催されぬまま終わった。
 仁川ウェーブス以外の球団に関しては、少なくとも活動停止は発表されていないが、チームの情報はほとんど無く、もちろんリーグ戦の類もない。ただし、唐津現代製鉄ブルーカップに元・斗山ベアーズのパク・チャンボムが在籍するなど、元KBO選手の受け皿として少しずつ機能している。
 独立野球団京畿道リーグの球団が増え続け、野球選手にとっての選択肢として確立されるなか、韓国実業野球は復活の糸口をつかめていない。今後の動向に要注目である。

 下記は1998年に東大門野球場で行われた、ポスチル対現代電子の試合の模様である。無人のスタンドに響く金属バットの音が寂しい。先述の1979年の白虎旗大会決勝の映像と見比べると、「事実上のプロ野球」が、あくまでも「事実上」でしかなく、プロ野球発足後にどれほど衰退したかを痛感する。

幻の、70年代韓国プロ野球設立計画

 ここで時計の針を1976年に戻そう。
 ロッテジャイアンツの鹿児島キャンプの様子を伝えた『週刊ベースボール』の記事では、実は韓国プロ野球設立の計画についてすでに詳しく触れられていた。
 しかも「韓国のプロ野球が誕生するニュースが日本に伝わってきてから、もう5年にもなる」(著者不明 1976a:29)との記述もある。
 ここで『週刊ベースボール』が報じた韓国プロ野球設立計画とは、在米韓国人実業家のホン・ユンヒによるものであった。
 予算は1億5,000万ウォン(当時の日本円で2億4,000万円相当)で、1976年9月結成、7球団が参加する予定であると報じられた(著者不明 1976a:29)。フランチャイズ都市はソウル、釜山、大邱、仁川、金州[注:おそらく「全州」の誤記]、光州の6か所で、ソウルにはロッテとヘテの2球団が置かれる予定であった(著者不明 1976a:29)。ロッテジャイアンツは、韓国のプロ野球チーム第1号となることを目標としていたのである。
 『週刊ベースボール』の1976年3月15日号にも、韓国プロ野球構想に関する続報が載った。ここでは「韓国プロ野球振興協会」の発表として、1977年4月上旬から、ソウル、大田、大邱、光州、釜山など6都市を本拠地としリーグ戦を開始することや、リーグ戦開始前の1976年には日本シリーズ優勝チームとの「アジアシリーズ」開催を希望していることなどが報じられた(著者不明 1976b:81)。
 しかし、『週刊ベースボール』の1976年5月3日号では、1976年9月に発足予定であった韓国プロ野球が、計画の旗振り役であったホン・ユンヒが突如アメリカへ帰国したことで暗礁に乗り上げたことが報じられた。3月初頭にホンは突然ソウルから姿を消し、準備委員会はストップして、委員会メンバーが口を閉ざしていることを伝えている(著者不明 1976c:107)。
 この記事では、それまでの報道をなぞる形で、ソウルに集中している実業団チームを国内6か所に分散させてプロチームを立ち上げる計画であったこと(著者不明 1976c:108)や、韓国における高校野球の爆発的な人気と郷土色の濃さをプロに導入するということも手段の一つとしていたこと(著者不明 1976c:108)にも触れられている。
 そして、計画が頓挫した最大の理由として、野球協会と実業連盟から「プロ野球の創立には反対ではない。しかし、いまの実業団チームをプロに切り替えるのは反対だ」(著者不明 1976c:108)という意向が示されたことを挙げている。
 当時、大韓野球協会の傘下には、高校野球、大学野球、そして実業野球の三つがあったが、高校野球と大学野球の人気が高く、野球協会の後ろ盾をそれほど必要としていないことから、野球協会の側がむしろ実業野球をよりどころとしており、実業野球のプロ化によって大学野球などもアクションを起こすことを恐れていた、という趣旨の「事情通」による分析もこの記事には書かれている(著者不明 1976c:108)。
 連日ラジオとテレビで放送される高校野球や大学野球、そして実業野球には目もくれず大学進学を選ぶ高校野球のスターたち、さらには徴兵で2年ほどチームを留守にする間に実力が低下してしまう実業野球の選手たち……という要素が重なった結果の、1976年当時の実業野球の不人気ぶりを伝えている(著者不明 1976c:108)。この頃は、ロッテジャイアンツはまだ創立間もない時期で、興行色を強めるリーグの前後期制やコリアンシリーズはまだ導入されていなかった。
 そして、今後の展望として、ロッテがプロ化に踏み切るならば、ヘテはすぐプロチームを持つだろうし、ホンが調査したアメリカと日本のプロ野球のデータは貴重な資料として残るだろう……というベテラン記者の分析を紹介している(著者不明 1976c:109)。
 『週刊ベースボール』の報道は、韓国プロ野球計画の発起人であるホン・ユンヒ以外に実名で登場する人物がほとんどいないことや、ホンが突然姿を消したこと、関係者が口を閉ざしていることなど、プロ野球計画が頓挫した背景に不穏なものがあることを示唆していたが、2021年1月22日に韓国の「マネートゥデイ」の記事でその内幕が明かされた。
 以下、「マネートゥデイ」の記事に基づき、その概略を示す。
 1975年11月にホン・ユンヒはアメリカから韓国に戻り、プロ野球が必要だという信念を野球人たちと語り合って、実業野球のプロ化を模索した。1975年11月8日には実業野球連盟理事会がプロ野球創立計画を承認した。
 好意的な反応を得たホンは一度アメリカへ戻り、プロ野球設立準備資金となる20万ドルを持って1976年初頭に韓国へ再入国した。1976年1月6日には「正式推進委員会」を結成した。推進委員には、商業銀行野球部長、陸軍監督、韓国電力監督、実業連盟事務局長、農協監督、鉄道庁監督など、当時の実業野球界を牽引する人々が名を連ねた。
 委員会は、ホンが取りまとめた「韓国成人野球再建案」を1976年3月6日に発表した。これは1976年を起点に、1980年までにプロ野球を韓国に定着させるための具体案であった。ホンは大韓体育会や文教部、さらには朴正煕大統領に提案書や陳情書を出すなど活発に動き回った。
 しかし、大韓体育会が実業野球チームの地方分散に反対し、大韓野球協会も、同年9月に開催されるアジア選手権大会で主軸となるであろう選手のプロ進出を容認できないとして反対した。そして、ホンはプロ野球計画が暗礁に乗り上げた直後に韓国を出国した。
 実は、ホンは朝鮮戦争中の1950年9月20日に国防警備法違反の疑いで起訴され、軍法会議で懲役10年の判決を受けて服役し、1955年に仮釈放されていた。1973年、朴正煕維新政府の「社会安全法」の発議によって、自身が虐殺の対象となることを恐れ、同年12月にアメリカに亡命移民していた。
 ホンが韓国プロ野球創立に奔走するきっかけとなったのは、朴正煕政権で経済副首相を務めたチャン・ギヨン(韓国日報創業者)との幼少期からの縁であった。チャン・ギヨンの誘いでプロ野球計画案をまとめたのが1974年11月ごろのことであり、その後、キム・チヨル内務長官と面談して賛同を得た。大韓野球協会のキム・ジョンラク会長とも面会したが、好意的な反応を得られず、さらにはキム・ジョンピル国務総理、シン・ジクスKCIA部長もプロ野球計画に反対した。
 軍務時代の縁が結果的にホンを救うこととなった。軍にいたころに縁があったKCIAのキム・ムンスからプロ野球設立準備資金の20万ドルの出所を尋ねられ、いとこで日本にいる大阪興業銀行のシム・ジェインに用意を頼んだ、と答えた。シム・ジェインは朴正煕と同じ町の生まれで、朴正煕の出自や家柄をよく知っていた。こうしたことを踏まえてキム・ムンスは「捕まって刑務所に入れば拷問を受ける」とすぐに出国することをホンに勧めた。
 忠告に従ってホンはアメリカに帰国したが、プロ野球計画に未練があり、1976年7月に面識があったハン・ビョンギ国連公使に連絡を取った。ハンは「誰がプロ野球計画を妨げたのか。韓国に戻って調べよう」と憤り、9月に韓国へ向かった。
 ハン・ビョンギがKCIAなどで調べた結果、プロ野球計画が潰れたのは、朴正煕大統領自身がKCIAからプロ野球計画に関する調査報告書を受け取った際に、朝鮮戦争当時に軍法会議で裁かれたホン・ユンヒが生存していてアメリカに亡命したことを知り、(主として、いとこのシム・ジェインを通じて)若き日の自身の恥部(出自や家柄の悪さ)を知っているホン・ユンヒがまだ生きている事実に怒って「プロ野球の話はするな」と一喝したのが原因…ということであった。
 1976年の韓国プロ野球計画は、大韓野球協会と実業野球の利害関係といった生易しいものではなく、朴正煕の個人的な感情論で叩き潰されたのであった。
 2012年にホン・ユンヒは「韓国成人野球再建案」の原本をKBOに寄贈した。また、2013年2月13日に、ソウル中央地裁は「朝鮮人民軍の総攻撃計画を韓国軍に情報提供してくれたのに、誤ってスパイ容疑をかけた」として、過去の軍法会議の判決を取り消し、ホン・ユンヒの名誉回復のために無罪判決を言い渡した。
 幻の70年代韓国プロ野球計画の背景には、当時の朴正煕政権が暗い影を落としていたのである。だが、現在のKBOも、ホン・ユンヒの努力がなければ決して生まれてはいないだろう。
 さらに付け加えるならば、1977年から実業野球がパ・リーグを模した前後期制導入とコリアンシリーズの創設により「事実上のプロ野球」となったことも、ホン・ユンヒのプロ野球計画を意識したものだったかもしれない。なぜなら、先述のとおり、彼のプロ野球計画には、実業野球関係者が数多く関わっていたからである。ソウル一極集中の解消こそなかったものの、大邱や釜山などソウル以外の各地での試合開催や興行色の強化は、まぎれもなく「セミプロ」のそれであった。
 ひとりの実業家の行動力は、間違いなく韓国野球の歴史を変えた。ホン・ユンヒへの敬意をこめつつ、本稿を結びとする。

追記
 本稿で引用した画像からもお気づきのことと思うが、韓国の実業野球のユニフォームの中には、日本のプロ野球と似たものが散見される。ロッテジャイアンツはロッテオリオンズとほぼ同一のものを着用していたし、韓国化粧品は南海ホークス、浦項製鉄は星野仙一が活躍したころの中日ドラゴンズ、第一銀行は(胸番号こそないが)クラウンライターライオンズに似ていた。
 これは筆者の持論であるが、特に1977年〜1981年ごろの韓国実業野球は、パ・リーグを模した制度と、日本プロ野球に似たユニフォームから、「昭和の日本のプロ野球」とも共通した空気を纏っていたように思われる。
 80年〜81年ごろの雑誌から、実業野球選手のカラー写真も紹介しているブログ記事があるので、ぜひご覧いただきたい。

1981年当時の浦項製鉄のユニフォーム(打者キム・ヨンヒ)
出典:https://i.namu.wiki/i/KTCCG3nsl1rMVKdZ5yX2CojdpJQTEJsg3YjoRu9Ow4qrNhs0oySPmnLbhcY5QmBbKwum5CRD1yCWgurTMKAr-VMGXfHtk2F04iEnWGS1uZercmxNYfuJ7PhbGpIr5vUy6gTlzeo0xqgNzBOA_BCkamL35sAO5eJP9Kzw1RlOYUU.webp
整列するロッテジャイアンツの選手たち
後列左端は第一銀行、その隣は星武の選手

追記その2
 ロッテジャイアンツは、韓国語では"롯데 자이언츠"と表記される。だが、実業野球時代には、しばしば"롯데 자이언트"と新聞記事などで書かれていた。無理矢理カタカナ表記するなら前者は「ジャイオンチュ」、後者は「ジャイオントゥ」である。現在は、ナムウィキの記事をはじめ、実業野球時代をプロ野球時代と区別するため、敢えて後者の表記を採用することもある。

実業野球時代の報道の例
出典:https://i.namu.wiki/i/KTCCG3nsl1rMVKdZ5yX2ClGshdkBAscNs33xEcIaUO06wntss_PYDKAEHu8TlciN0ykhJucmreWZFffMD6By5HytWA4ntYNgz8YItoa0XZEBKtd1r7knUY0j5ijGwHeOgeoEQHKPr_LsLNN5crqXb1A6cMyTRa1EBa4HIznX49c.webp

追記その3
 1976年ごろに韓国への移籍をにおわせていた張本勲は、1980年にも『週刊ポスト』誌上で、韓国プロ野球構想を語った。張本は当時、韓国へ指導に行っても、専門の指導者が不足しているために選手からトンチンカンな質問が来ることを気にしており、バッティングの教科書を執筆していた。そして、6球団1リーグ制で、釜山、大邱、ソウル、全羅南道などに球団を置き、1球団の支配下選手は35人にする、というプロ野球構想を明らかにした(著者不明 1980:34)。

追記その4
 1977年から1981年の「コリアンシリーズ」の全ての試合を網羅した韓国語のサイトがある。興味のある方はぜひ覗いてみてほしい。

参考文献
大島裕史 2006 『韓国野球の源流 玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス』 東京:新幹社

加藤毅康 1962 「白選手と韓国の野球」『週刊ベースボール』1962年2月19日号:25 東京:ベースボール・マガジン社

著者不明 1963 「アマ球界ニュース」『ベースボールマガジン』1963年6月号:182 東京:ベースボール・マガジン社

著者不明 1973 「日本のプロ球界が狙う 江川君より大物といわれる韓国高校野球の金の卵」『週刊現代』1973年9月27日号:160-162 東京:講談社

著者不明 1976a 「韓国プロ野球創立目指すロッテジャイアンツ オリオンズの兄弟球団 今年9月に旗揚げ」『週刊ベースボール』1976年3月8日号:28‐31 東京:ベースボール・マガジン社

著者不明 1976b 「韓国プロ野球来春から6球団で発足」『週刊ベースボール』1976年3月15日号:81 東京:ベースボール・マガジン社

著者不明 1976c 「暗礁に乗り上げた!?韓国プロ野球の実態」『週刊ベースボール』1976年5月3日号:106‐109 東京:ベースボール・マガジン社

著者不明 1980 「張本勲『オレの韓国・1リーグプロ野球構想を初めて明かす』」『週刊ポスト』1980年6月20日号:32-34 東京:小学館

松尾俊治 1965 「大昭和製紙 韓国遠征で13勝1敗」『ベースボール・マガジン』1965年6月号:162‐163 東京:ベースボール・マガジン社

参考サイト
ナムウィキ「韓国実業野球/歴史」の項目(2025年1月25日閲覧)
https://namu.wiki/w/한국실업야구/역사

ナムウィキ「韓国実業野球/歴代参加球団」の項目(2025年1月25日閲覧)
https://namu.wiki/w/한국실업야구/역대참가구단 

ナムウィキ「ホン・ユンヒ」の項目(2025年1月25日閲覧)
https://namu.wiki/w/홍윤희

マネートゥデイ「【プロ野球40年秘話】初企画ホン・ユンヒ翁、『1976年に朴正煕圧力で挫折』衝撃証言」(2025年1月25日閲覧)
https://m.mt.co.kr/renew/view_amp.html?no=202101221035777821O

いいなと思ったら応援しよう!