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早稲田卒ニート80日目〜これ、どうすっかなあ〜

ジン45mlに5mlのフレッシュライムジュースを加え、ステアをしてから適量のトニックウォーターを注ぐ。無事、ジントニックの完成である。ところがライムの酸味には個体差がある。常に5mlを、つまり決められた量を入れておけばそれで良し、ではない。密集して成っている果実たちにだって、吸収してきた養分や生長の条件に微妙な差がある。ライムだって「生命」なのである。今日は随分と酸っぱいライムに当たった。「これ、どうすっかなあ」である。

大工にとって、〈問題〉はいつも限りなく変化している。家が建つ場所はみな違う。地形も日当たりも土の質も違う。手に入る木は、それぞれみんな性質を異にしている。家の組み立ては、もちろんみんな違う。住む人間も、用途も、資金繰りの仕方も違う。何から何まで異なってくる。「これ、どうすっかなあ」である。これを、日々どうにかすることによって、高橋さんは五十年間大工として生き通してきた。

(前田英樹『独学の精神』)

「手技」は、その時その場次第で限りなく変化する具体的な状況に応じて為される。五十年経ってもなお、「これ、どうすっかなあ」が続くのである。が、これは変化への従属ではなく、変化に身を委ねつつもそれに対応できる「強かさ」であろう。中途半端に強がりな奴ほど、つい変化に対して抗おうとするものだ。もしくは、変化を法則のうちに閉じ込めて解決しようとするものだ。

近代の学問は、文系、理系の別なくほとんどみな建築士の流儀になり、今ではコンピューターがその一番いい道具になった。こういう学問は、ずいぶんと便利なもの、重宝なものをたくさん持ち込んでくれた。しかし、こういう便利さとは、要するに骨を折らずに済むということに過ぎないのではないか。もっとはっきり言えば、生きる努力をしないで済ませることが、いろいろな学問の目的になった。生きる努力を節約することは、その分だけ生きることをやめることであり、これは面白いことでも何でもない。むしろ退屈な、ろくでもないことである。

(同上)

「これ、どうすっかなあ」と言う時、そこには具体的な「問題」が出現している。そしてその問題を「どうにかする」ために骨を折ること。そこに、生命の不断の努力が注がれる。これもまた、人間の実存を作る一つの動機であろう。しかしながら、それを「節約」しようとする流れが、確かに勢いを増している様に思われる。

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