『黄河が来た』座談会 各部員のコメント(3)
多少無理があるかもしれませんが、私は「黄河」を「思春期の衝動」と解釈してこの詩を読みました。「天井」や「床下」といった日常的な空間全てを輝かせ、「手のひら」でも受け止めきれないような「黄河」。そういった衝動を覚えたとき、「寝転ぶしかない」し、「どうしたら良いものか」となってしまうように思います。ただこの類の衝動は、強い力を持っているようでいて実は儚いものです。黄という色は、(個人的に)儚さを想起させます。衝動の強さと儚さの狭間で「黄色い土と砂を噛むしかない」のではないでしょうか。
そして、途中で登場する「妻」「子ども」は全て思春期の儚い妄想上の存在である、つまり「僕らの子ども〜」の連は「僕」の妄想の夢の世界であると解釈してみました。そのうえで最終連、「僕」自身の「お父さん」「お母さん」という現実の存在に、「黄色が来た」と心の中で告げることで、その妄想の世界もパタっと消え、衝動がおさまり、「僕」は現実世界に引き戻されるのではないでしょうか。
(文章:桃ヶ山心一朗)
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