『黄河が来た』 座談会議事録
7月30日、5人の部員が部室に集い、『黄河が来た』(和合亮一)の座談会を行った。黄河とは一体何を指しているのか。あらがいようのない大きな流れの中に立つ一軒の家を背景に、寝ころび、祈り、命を紡いでいく「僕」。壮大でいながら、あくまで身体的な視点から語られる一つの詩について、わたしたちは一時間半執拗に掘り下げていった。
来た 黄河が来た
『黄河が来た』はこの印象的なフレーズに始まる。黄河とは一体何であろうか。部員一人一人が違う答えを抱いていた。生命の流れ、また、生でもあり死でもある、一つのあらがいがたいもの。運命。思春期の衝動という意見も挙げられた。これらの感じ方の違いは各部員の文章をぜひ読んでみていただきたい。『黄河が来た』は現代詩のなかでは比較的明瞭な表現で描かれた作品であると言えよう。そのような作品に対してこれほど多様な読み方がなされた。そのことにわたしは、万物の根底に流れる大きな流れの、その懐の大きさを感じずにはいられない者である。
部員一人一人があまりに異なった読み方をしているために、この作品への詩人会としての統一された見解を示すことは難しい。ここでは、和合亮一という詩人の在り方について思いを馳せることで、座談会のまとめに替えたい。
和合亮一は震災を描いた一連の詩によって有名になった詩人である。震災はあまりに大きい悲劇であった。震災の時わたしは岩手に住む小学生であったが、文字通り足元が崩れていくような、今までの大地への無条件の信頼、そこで私を支えてくれる全てのものへの無条件の信頼が揺るがされるような惨事であった。わたしたちは震災を扱うすべを知らなかった。いまだに知らないのかもしれない。大きすぎる悲劇をどう扱って良いものか、わたしたちは途方に暮れるほかなかった。
そのような状況で現れたのが和合亮一という詩人だった。わたしたちが震災について語る時、肉体から乖離したものとして扱うか、あるいはすっかり個を失って、震災と一体化した視点に立って語るかのいずれかであろう。そこでわたしたちは、和合亮一の特殊な立場に気がつくことになった。和合亮一は、あくまで自分という存在を保持したまま、震災に向き合っていったのである。これはとても難しいことなのではないだろうか。震災というあまりに大きな事件に対して、わたしたちの身体はあまりに小さすぎるからだ。
ここらで『黄河が来た』に戻ろうと思う。『黄河が来た』自体は実は震災以前に描かれた作品である、足元に迫り来る黄河の様子を読んで、震災以降のわたしたちは震災のことを連想せずにはいられないが。しかしここにも、震災の詩によってはっきりと表された、和合亮一の詩に通底する特徴を読み取ることができる。それは身体性である。あるいは個の視点である。黄河が「来た」という不思議に惹きつける言い回し。そこに現れているのは、黄河に飲み込まれることなく、手で、足の裏でひたひたと波打つ黄河の流れを感じ取りながら、大きな流れに対峙する1人の人間の姿である。あまりに大きなものに対峙する個の姿を、ここでもわたしたちは見出すことができる。
『黄河が来た』の読みは、黄河に飲み込まれてしまうという危険、欲求と闘いながら行われた、スリリングな試みであった。繰り返しにはなるが、一人一人違うこの詩の受け止め方を、ぜひ一読していただきたい。
最後に、和合亮一のバックグラウンドを踏まえて、震災以降作者自身のこの詩の受け止め方は変化したのだろうかという問いを提示したい。こればかりは部員の誰であれ答えられるものではない。わたしたちは『黄河が来た』について、和合亮一という詩人について、各個人の存在から生じる言葉で真摯に向き合うばかりである。
(文章:手塚桃伊)
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