『もののけ姫』感想雑記(途中で尻切れ)

まずもののけ姫には様々な立場同士の対立があるが大きなものと言えば人対神(自然)だろう。
西の地のタタラ場とシシ神の森、そこに住まう人々と長エボシ、神々とそのうちの人間の娘サン、そこに東の地から来たアシタカを始め都から遣わされたジコ坊達一派が絡むわけだがそれぞれには業がある。

人間としては自らの私利私欲のため森を切り水を汚し挙句には神殺しまで謀る。対して森の神々たちはモロや乙事主らはそれぞれが背負う矜持のため牙をむく。どちらの立場にも道理はあるがそれは破壊、つまり奪う行為でしかないのである。

そこで中心となるシシ神の立場はどちらにも属さずまさに神として中立にいる。神の行いとしては命を均しく扱うことにある。劇中では「命を与え、奪いもする」とあり言葉通りシシ神の足跡からは新しい芽吹きが生まれそして枯れゆく。傷ついたアシタカを癒すこともあればタタリ神となった乙事主を逝かせてあげることもできる。人間やモノノケたちが争いの中で破壊し奪い合う中で同時に再生、与えるという行為の側面を持つものが「神」とされているのだ。

しかし神の中でもタタリ神は呪いを振りまくだけの成れ果てであり、犬神であるモロはタタラ場の者たちを襲いサンを娘として育てるが「山犬にもなれず…」の語り口から一人間にはしてあげられておらず、乙事主は同胞の仇討ちのため人間を敵視しタタリ神化する。他にも神性を持ったモノノケ達もそれを無くし畜生になりつつあるという。
つまり完全なる「神」として中心にいるのはシシ神だけなのである。

対立している背景には3つの主要な立場があることが分かる、では主人公のアシタカ、そしてサンはどこに属するのか。
それはどちらにも属していない宙ぶらりんな"持たざる者"としての立場にいるのだ。

まずアシタカは神殺しの禁忌と呪いを背負い村を出ることなった寄る辺の無い人間であり作品全体における第三者である。森のモノノケ達にもタタラ場の者たちにも与し相対すること、「曇りなき眼で見定める」とはそういう意味なのだ。

次にサンは人間でありながら山犬の娘として生きている。しかしモロの言葉にあるように「山犬にもなれず人間にもなれず」にいるのだ。モノノケ達と共に人間と戦うがアシタカに心を許し、劇中では人を殺めるシーンが無いのだ。
余談だが劇中で神性を持ったモノノケはシシ神に命を奪われ天寿を全うするか人間への怨嗟からタタリ神に堕ちるかのどちらかを迎えることになる。サンの言葉で「タタリ神なんかになりたくない!」とあるがこれはモノノケ側ではなく人間に寄った発言といえる。なぜなら作品の中で生に執着しているのは人間たちであってモノノケ達は矜恃のため殉死することを厭わないからだ。

ゆえに彼ら2人はどちらにも属さず自分たちの役割を果たそうとするのだがそれこそがまさに

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