『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』感想

「笑えないジョーク」
一言で言えばこの映画はそうだろう。
ジョーカーはなんでもジョークに変える存在なのにジョークにできなくなったアーサーに始まる。
つまりエンタメに期待する方がおかしい、ということが隠されたメッセージなのか。

オープニングのアニメは自身の影によって酷い目に遭う話=フォリアドゥのストーリーそのものを意味する。

前作は現実と妄想の区別がつかなくなる演出(キングオブコメディのリスペクト)
今作の妄想ははっきりしている→ミュージカルは唐突に始まり唐突に終わる。
アーサーとジョーカー、現実と虚構、ストーリーと演出を分ける機能を持っている。
歌劇によりアーサーの葛藤と心情を観客にダイレクトに伝えるだけでなく「我々は幻を見せられている」感覚を常に持たせている。

現実をつなぎ止めるもの=タバコ
煙はシラフ(本来の自分)を保つための薬ともいえる演出道具であり今が現実であると教えてくれるコードになる

ジョーカーは誕生しない、ハーレイクインも誕生しない。終始不在の物語。
そんなものはない、ありえないと突きつけるあまりにもつまらない現実、それは監督自身による作品そのものと社会の断罪である。

アーサー自身を見てくれていた人物は?
A、母親、隣人、弁護士、ゲイリー

ゲイリー「君だけが僕を笑わなかった」
アーサーは孤独で弱い人間と思っていたが同じように苦しみながら、業を背負いながら生きている人間がいることをようやく知る。
そしてそのいわば同士ともいえる存在を傷つけてしまった、灯台下暗しであったことを知りアーサーは初めて自身の罪とジョーカーという背負い切れない業に気づく。

アーサーはその仮面の贖罪を決意する=自分自身を認めてもらいたいというか弱い承認欲求→誰も求めていない選択肢で無意味で無価値な選択。そして捨てられる。

ジョーカーという仮面をつけた自分を見ていた周りの人間たちに追従し、そして見放されるという悲喜劇。アーサーは再び持たざる者に戻ってしまう。
この他人な社会にに振り回される哀れな姿はまさに道化師のそれである。

アーサーとリーの恋
心の底を打ち明ける(真実を話す)アーサーと共感を得たい(嘘を話す)リー。2人は初めから決して相容れない存在だった。
その嘘すらも受け入れるアーサー、しかし虚構のジョーカーしか見ないリーは真実のアーサーは受け入れない。
実は対照的な2人、むしろリー自身がいわゆる「ジョーカー」といえる。
どこまでも嘘と真実がわからず人をたぶらかし、試し、コケにして傍若無人に振る舞う。
リーはその罪を贖いもせず背負もせずただ一時の夢だったが如く消えていく。

前作で象徴的だった階段では中途半端な位置で止まったままにある。
残酷な真実を受け入れざるを得ない、アーサーでもジョーカーでもいられなくなった宙ぶらりんの男がそこに立ちすくむのみである。

ご都合主義のような悲劇としてのラスト。
若い囚人に殺されるアーサー、彼はジョーカーの信奉者ではない。しかし抑圧の中で自らの罪を贖うのではなく業として背負っていくことを選択した狂人でありアーサーのアンチテーゼ
自らの口を切りつけ笑う=道化師の仮面は受け継がれ新たなるジョーカーの誕生
見捨てられた弱者の背負いきれなくなった業は伝染(責任転嫁?)していく。

絶命するアーサーの顔には苦悶も笑顔もなく口元の血が垂れる=冒頭の時のジョークも言えなくなった惨めなアーサーと同じ表情。

つまり全ては瑣末な出来事で何も変わることはなく振り出しに戻るしかない。
結局弱者は弱者のまま消えていくしかない。

フォリアドゥ=2人狂い、狂気の伝染を意味するが本当に伝染したのだろうか?
ミュージカルは狂気のメタファーで妄想は病気そのものである。
あの楽しい歌の一幕こそが病んだ精神性、と現実逃避、すなわちアーサーの心の底にあるジョーカーそのものを意味する。
伝染するなら移した側はどうなるのか?虚構の中身は常に空っぽなのだ。
伝染るのではなく、模倣されるだけなのだ。

ジョーカー=ミュージカル=仮面=影=虚構


前作は「笑えないことを笑う男=ジョーカー」という図式のある妄想入り乱れる映画になっていた。数々の謎と疑問を残しながらも衝撃的な内容がそれを上手く誤魔化した?というような傑作であった。

今作は「贖罪」の映画といえる。
そして前作の「ネタバラシ」的な構造にもなっている。辛い現実のアンチテーゼとしての喜劇。つまり不条理な笑いそのものを破壊、否定、そして暴いたのだ。

その中で登場人物たちは「罪」と「業」を行き来する。
作品が社会に及ぼした影響を断罪する、しかし人の業とあれば否定はできない。
しかしその結果起こる悲劇、悪意をどうやって贖うか。
実はそれに振り回される弱者は罪もなく狂気もなくただ生きづらさの中に生まれた業として存在する不都合な真実があるだけなのだ。

ではネタバラシとはなんなのか、それは「そんなもの(=ジョーカー)は存在しない、してはいけない」ということだろう。
つまり、前作の続編という形を取りながらそれを否定したのだ。
随所にあるトラウマのフラッシュバックは全て前作の映像でありアーサーはそれに苦しむ。まるであの時のことが過ちであったかのように。

いろんな考察が生まれた前作の構造をあらゆる意味で破壊したような今作には不満の声もあるかもしれない。

作品は現実のアンチテーゼであるために面白さがある。だがフォリアドゥはその名の通り、病に侵された現実そのものを模倣していたのではないか。

その観客が見たかったもの、想像した罪と罰は果たして作品にあるのか?それとも現実の社会そのものにあるのか?

しかし我々が何を思おうとも目を塞いでいた不都合な真実は虚構(ミュージカル)で覆い隠しても現実(物語)は消えない。

作品の中には受け入れるも拒むもなく、ただそこにあるだけなのである。
それが笑えるジョークになるかはわからない。

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