いつかの日記(17) (色々な手違い、カーソン・マッカラーズ『マッカラーズ短篇集』)

日記のようなもの、つづき。

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調味料棚に同じメーカーの同じデザインの「ブラックペッパー」と「シナモンパウダー」の缶を並べていて、いつか絶対に間違えるナーと思っていたけど、とうとうやった。いつか絶対に間違えるナーと思っていたので驚きはない。がっつりシナモンがまぶされた野菜炒め、なんとなくトロピカルな、緯度が低そうな風味がして「なし」ではない気がしたが、「なし」ではないなら「あり」であるとも言えないのがこの世の悩ましいところだと思いながら食べた。同じ一振りでも細粒であるシナモンパウダーの方が、顆粒であるブラックペッパーより多量に広範囲に振りかけられるということは、やってみないと気づかないがそりゃ確かにそうですよねという感想だ。

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ハンドソープのボトルを変えた。前のボトルの方がポンプに重みがあったから、ソープを出すとき、くせで必要以上に強く押してしまう。
出しすぎた泡を手首の方まで纏わせながら、頭の記憶がポンプを押す手の記憶に負けてるぜ…と思う。記憶のほとんどは頭じゃないところにある。

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『マッカラーズ短篇集』(ハーン小路恭子編訳、西田実訳)を読んだ。
カーソン・マッカラーズ。やっぱり好きだ。かっけ〜。
クールな観察者のようで、歪な愛のかたちを露わにしていくとき確信的にブレーキを踏み外して加速する、スリリングな文体。所々の細部を突然虫メガネで拡大するような不安定さ・不気味さをはらんだ情景描写。あと、20代の頃初めてマッカラーズ作品を読んだときは特に思わなかったのだけど、今作で印象に残ったのが彼女のユーモアだった。悲劇の裏側に分かち難くはりついた乾いた可笑しみと、人情への理解とひと匙の悪意がある。

軸となる中編『悲しき酒場の唄』は奇異な連中の奇異な愛憎を暴力で盛り上げていくわりとイカれた小説だが、ここに描かれているのは一つのユートピアなのだろう。編訳者解説がとても良いのでそれに同意いたします。「異物」たちの人間模様は、結末の散々な破壊まで含めてもはや清々しい変てこさで、この世の外へこぼれ出していく祈りのような作品。

他には、『天才少女』『渡り者』が特に好きだった。どちらもピアノを弾く/弾かせるシーンがある。ピアノの調べは弾く者/弾かせる者の心の猛りと共鳴し、むき出しの音楽にせっつかれて愛情と欲望が同じ泉から溢れる。

曲はかつてエリザベスが弾いていたものだった。繊細な空気が、果てしない記憶を呼び覚ました。過去の切望や、対立や、矛盾しあう欲望がほとばしるなか、フェリスは自分を見失った。荒れ狂うこの無秩序状態の触媒となった音楽が、こんなにも荘厳で愛しいものであることが奇妙だった。

『渡り者』より(『マッカラーズ短篇集』p.234)

先生の顔が彼女の前の空間で振動し、こめかみの血管がぴくぴくする動きとともに近づいてくるようだった。顔を避けるように、彼女はピアノを見下ろした。唇はゼリーのように震え、音も立てずに涙があふれ、白い鍵盤は水が滲んだ線のように見えた。「できません」絞り出すように彼女はいった。「どうしてだかわからないんです。でもできないーーもうできないんです」

『天才少女』より(『マッカラーズ短篇集』p.202)

大したことは起こらないし、周囲の他人はなんでもないように過ごしているが、当人の心の中では大事件が起こっている。何かが大きな音を立てて瓦解している。ちっぽけな一人ひとりの言動の狭間に、新しい景色が開ける直前の、押し寄せる恐怖と騒音、頼りない光がある。

全8編を読みながらぼんやり考えていた。個人の絶望や希望は、私の日常の「私にとって決定的な瞬間」において、最大瞬間風速を記録する。その瞬間と風速は私だけのものであり、傍らの他者には決してわからない。
だから私たちは、隣り合いながら果てしなく寂しい。傲慢な「愛する者」であることをやめられない。

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つづく。




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