青森芸術体感の旅

今年の夏休みは少し長めになった。
大学時代の友人が昨年から企てていた青森旅行に付き合うため。

我が故郷。毎年盆正月は帰省するが、観光スポットに立寄ることはない。正直あんまり興味もなかったし期待してなかった分、想定外に楽しかった。
弘前・黒石・青森・野辺地・むつ恐山。おまけで盛岡。
久しぶりの場所、30年ぶりという場所も。観光客然として歩くと、青森って住んでみたいくらい良いところかも。と錯覚する。

あくまでも「錯覚」。雪もない。方言もマイルドに接してくれ、観光客を歓迎してくれる人たちにしか出会わない。国内でもワーストに入るくらい所得の低い生活者の実態は見えない。

でも、この所得が低いというところ。見方を変えれば、生活を営む上でお金だけが全てじゃない理想の生き方をしている人たちの住む世界。どういう心持で日々を過ごせば、お金に依存しない生き方ができるのか、そのヒントを得ようと、今、道中に出会う人や店や街並みの記憶を思い返している。

最終日の恐山を訪ねて思い出した、初日の弘前れんが倉庫美術館で見た、大巻伸嗣|地平線のゆくえ

大巻氏は青森県内を取材し、人や自然、物質世界や精神世界の生と死が円環を成すような死生観というテーマにたどり着き、この展覧会至っている。

この美術館は、かつて高校生の私にとっては、高い塀に囲まれた大きなれんが倉庫。街の片隅で大きな影を纏ったミステリアスな存在で、倉庫前の杉並木や稲荷神社、松尾神社も一体となって魅了される異彩を放つ場所。この不思議な存在が私は好きだった。

今となっては高い塀が取り払われ、街に開かれ平べったくなったこの場所の異彩は随分はぎとられてしまった。この美術館の展示空間の壁だけが倉庫当時のままコールタールで真っ黒に残っている当時の倉庫の面影。

だったのだが、今回の展示は、私の記憶にある弘前のいたるところに見た影を纏ったミステリアスが凝縮されて、この建物の中の作品に宿ったような感覚だった。

この、ミステリアスなというか、不思議なというか、言葉にするのが難しい魅了された異彩な空気は全く持ってポジティブなものではなく、ネガティブなやり場のない感情をしょうがなく内包し続けている、あまり関わりたくない空気。でも、たまに光が当たると実はとても純で澄みきった空気なんじゃないかと私は思っていたのかもしれない。

で、お金に依存しない生き方のヒントはまだ見つからないけれど、私がずっと感じていたあの街の異彩な空気にその一筋の光があるのかもしれないと感じている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?