終戦という言葉のトリック
日本は戦争に負けた国、「終戦」と言えばそれを隠すことができる。
「敗戦」と「終戦」は似て非なるもの、後者は戦後、日本の立場を意識することができない。それは、敗戦国であれば、その言葉の対義語である「勝戦国」の姿が見え隠れする。しかし、「終戦」であれば。あの悲惨な戦争がようやく終わったという印象を与えるので、ここには「勝者」がいないかのようなイメージを残す。
明治維新後、国策として日本では翻訳事業が行われてきたのは皆さんもご存じのとおりで、それまでの日本には「愛」という表現(実態としての概念ではない)がなかったように、外国から輸入された言葉がそのまま今日まで使われている。誤訳含めて。
たとえば、「自然」もその背後に宗教的意味合いがあるなど日本人は想像できない。日本で「自然」といえば、人間を含めた生きとし生けるたち=「生類」がしっくり肌に合い、そこにあるのは万物を想像する力や八百万の神であっても外国のような一神教ではない。言葉が生まれた背景やそれが意味する言葉そのものの意味を説明することなく、日本語として定着してしまった。だから「自由」には、”生まれ持ってもつ先天的な自由”と、”自らたたかって勝ち取って得た後天的自由”との差異がなく、あくまで「自由」として片づけられてしまう。このような例は枚挙にいとまがない。
私たちが考える以上に、言葉から受ける影響は強く、深い。
「敗戦」ではなく「終戦」とすることで、戦後、今日まで日本は戦勝国の管理下に置かれているなど誰が気づくことができるのだろうか。