魂は生きている。~藤岡康太さんへの想い~

それは、4月10日のことだった。
朝の通勤途上で、その知らせを見た。

そのニュースのヘッドラインを見て、愕然とした。
同時に、心の中に巨大な穴が、空いた。

「藤岡康太さん死去 35歳」


話はその5日前、4月6日に遡る。
私は友人に招待されて、阪神競馬場の指定席にいた。

彼とああだこうだ言いながら、レースの予想を楽しんでいた。
そんな矢先、昼を過ぎた頃にその出来事は起きてしまった。

阪神競馬第7レース。
ダート1800Mで行われたレース中であった。

藤岡康太騎手が騎乗する馬が前の馬と接触し、藤岡騎手が落馬したのだ。

「ちぇ、落馬かよ。」
心の中でそう呟いていた。


彼が騎乗する馬の馬券を買っていたのである。


場内アナウンスが流れる。
「藤岡康太騎手、落馬負傷の為、第8レース以降の乗り替わりは・・・」

騎手が不可抗力で落馬することは、
通常あってはならないことだが、競馬にはつきものなのである。
負傷が長引くこともあるが、早期に現場復帰できることも少なくない。

落馬地点の様子は遠目では判らなかったのもあり、
そんなに大事には至らないであろうと、思っていた。


実際はそうでなかったのである。

落馬した彼は、後続の馬に頭部を蹴られ、意識不明の重体だったのだ。


藤岡康太騎手のパーソナルな面はあまり知らなかったが、
腕の立つ良い騎手で、「外枠に入ると、豪快な差しを決める」
そんなイメージの強い、頼もしい存在だった。

騎乗する馬が人気があってもなくても、
どうすれば「上位に入れるか」を常に考える騎手であった。

その手綱捌きは、私をはじめ、ファンの心を惹きつける魂を感じられた。


一週間後、4月11日。
私は再び、阪神競馬場に足を運んだ。

彼を悼むための、献花台と記帳台が設けられていた。
たくさんの献花が手向けられ、会場は悲しみに包まれた。


「康太騎手ほど、心を許せるジョッキーはいません。」


彼へ想いを書く列に並ぶ間、
メッセージを書くペンを取っている間。
涙は止まらなかった。


献花台の横に、
泥だらけになった、鞭と靴が展示されていた。

彼が最後の騎乗で、着用していたものだ。

そんなもの、見ていられなかった。

慟哭。

それ以外の言葉が見当たらなかった。


時刻はちょうど昼過ぎ、一週間前のその時を迎えようとしていた。

私は事故のあった場所、
3コーナーから4コーナーの限りなく近づける所へと向かっていた。

同じ時刻に始まった第7レース。
その間、私は砂塵舞うダートコースに向け、深々と頭を下げた。


そんなことをしても、彼が戻ることはない。

だが、彼がどんな信念で、命を懸けて馬を追っていたか、
その志と魂に少しでも、寄り添いたかった。

私が彼への敬意、想いを伝えることは、
そのくらいのことしか、出来なかった。


一年前の2023年11月19日。

彼はG1レース(競馬の中で格式高いレース)で、
大仕事をやってのけた。

舞台は、京都競馬場で行われたマイルチャンピオンシップ。

当初彼は、そのG1の舞台で騎乗する予定はなかった。

4歳牝馬のナミュール号。
この競走馬の騎乗は、ライアン・ムーア騎手に決まっていた。

ムーア騎手は、海外の主要なレースを次々と転戦する世界的な名手。
ところが直前のアクシデントで、
急遽、藤岡騎手が代打で騎乗することになった。

彼に白羽の矢が立ったのは、レースの数時間前である。
その僅かな時間で、調教師とレースプランを練って本番に挑んだ。

ナミュール号は大舞台で何度も好走するけど、
あと少し勝利まで及ばない、そんな競走馬だった。

大外16番枠に入った、ナミュール号と藤岡騎手。

スタートは後手を踏んで、前半はずっと最後方の位置取り。
レースを見返すと、腹を括った戦法に見える。

最後の直線、追い出しにかかる。
エンジン全開になると、猛然と他の15頭を飲み込んだ。

末脚一閃。
ナミュール号の武器を最大限引き出し、彼女に初戴冠をプレゼントした。

当日代打騎乗でG1制覇。
どんなに名手であっても、なかなか出来ない芸当であった。


藤岡康太騎手


藤岡騎手と、目に見える世界で会えなくなったこと。
彼の最後の騎乗の馬券を私が買っていたこと。

彼は家族のため、仲間のため、ファンのために日々命を懸けていたこと。

これらをどう解釈して良いか、まだわからない。

「なぜ、彼が。」

その意味を理解するまでは、相当な時が必要だと思う。

藤岡康太という太陽は、まだ私の中で生きつづけている。


彼への想いを、
一番近くの現場で見ていた日刊スポーツの藤本記者の寄稿を紹介し、締めくくりたい。

あの太陽のような笑顔が忘れられない。藤岡康太騎手は、本当に優しい人だった。忙しい調教の合間を縫い、毎週のように取材に答えてくれる。そして、取材の最後に「また、よろしく」と笑顔で言ってくれる。それがうれしく、小さな励みになっていた。

21年10月、京都大賞典でダービー馬マカヒキを復活勝利に導いた。その翌週、トレセンで僕を見つけると「馬券取ったんやって?すごいなあ。また、馬券取れるように頑張るわ」と笑顔で言ってくれた。取材を信じて的中したことより、年下の僕にも寄り添い、笑顔で一緒に喜んでくれたことが、うれしくて仕方がなかった。本当に優しい人だった。

その優しい表情は、家族の話になると、さらに優しさを増した。お子さんが生まれた直後は「本当にかわいい」と満面の笑みで話していた。毎週の競馬開催後はすぐ家に帰り、お風呂に入れていた。ナミュールでG1を制したマイルCSの後も「お風呂に入れないとあかんから」とすぐに競馬場を後にした。奥さん、そしてお子さんとの時間が何よりも宝物。それゆえ、昨年には「子どもも生まれたし、今まで以上の成績を出さないといけない。勝負の年になる」と覚悟の表情で意気込んでいた。

つい1週間前の4月4日の取材終了後、「また、よろしく」といつも通りに言い残し、バイクでさっそうと去って行った。僕にとってはそれが最後の言葉になった。あの柔和な表情を思い出すと、涙が止まらなかった。もう、あの笑顔は見られない。もう、一緒に喜びを分かち合えない。そう思うと、また涙があふれそうになる。そんな時、康太騎手なら「おい。また、よろしくって言ったやん。いつまでも泣くなよ」と、笑顔で声をかけてくれるに違いないと思った。【中央競馬担当=藤本真育】

日刊スポーツ4月11日 藤本真育記者






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