
”誰かの”気づきになる、巳年
穏やかな元旦の裏腹で、
2024年末は、ひどくネガティブな私がいた。
「エッセイをやめます。」
昨日付でそう書こうとする自分の姿が、頭によぎっていたのである。
まず、「私は何者か」の立ち位置を決めるのが先。
noteで提供したい価値が、明確に見えてこない。
そんなあやふやな状態で、発信を続けていいのか?
あれやこれやと、ひん弱な負傷兵は言い訳ばかりを並べていた。
そんな中、自分の内側から声が聞こえてきた。
「エッセイヲ、ヤメタラアカン」
いや、でも「明日へ向かう言葉だけ」でもええやん。
やっぱり一日2投稿は無理やって。
きっぱりお休みして、さっさとポジション決めようぜ。
「エッセイヲ、ヤメタラアカン」
私の中のもう一人(おそらく潜在意識)は、
その言葉のみ、語りかけてくる。
机上に散りばめられた御託、言い訳、屁理屈。
それらについて、”良いも””悪い”もコメントをしない。
ただ冷ややかでも、温もりもなく、淡々と伝えるだけ。
まるで、「モモ(※ミヒャエル・エンデ著の小説)」に登場する、
亀のカシオペイアのように。
そして2025年が明け、
色んな方とご挨拶を交わしたり、コメントを頂いたり、
勇気の出るシェアを拝読したりとしている中で、
何とか思い留まることができた。
一人だったら、どうなっていたことだろう。
そう考えると、心から感謝の念に堪えない。
「発信は楽しむもの」
発コミュの仲間、michingさんにそんな偉そうなことを言っていたのに、
このザマである。
ということで、
決意を改めたのであれば、エッセイは発信のテーマをもって書こう。
そう覚悟を決めた。
2025年は
「自分との壁打ち(日々の自問、考察)が、誰かの気づきになるように。」
このテーマで、引き続き発信して参ります。
最後まで、ご精読ありがとうございました。
今日も書けるという喜びに、感謝。