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1-46 春秋時代(晋の文公・楚の荘王)
前643年:斉の大夫らが反乱を起こし、桓公を幽閉。桓公はそのまま死去した。太子昭は宋に逃れて、4人の公子らによる後継者争いが勃発。斉は覇権を喪失した
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上図:春秋時代要図
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上図:春秋時代要図
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上図:春秋時代の諸勢力
前642年:宋の襄公が曹・衛・邾とともに斉に侵攻し、これを破って、公子昭を斉の君主とする(孝公)
前642年:北狄が邢と連合して衛を攻撃
前641年:宋の襄公が覇者を目指して諸侯と会盟
前641年:秦が陝西の梁を滅ぼす
前641年:衛が邢を攻撃
前640年:河南の滑が鄭に背いて衛につく。これを受けて、鄭が滑を討つ
前640年:斉が邢・北狄と邢で会盟し、衛に対して防衛を図る
前640年:楚が湖北の随を攻めて降伏させる
前639年:鄭が再び滑を討つ
前639年:宋が斉・楚と安徽の鹿上で会盟
前639年:宋が楚・陳・鄭などと河南の盂で会盟
前639年:楚の成王が宋の襄公を捕らえる
前639年:諸侯が河南の亳で会盟
前639年:楚が襄公を釈放
前639年:邾が山東の須句を討つ。須句は魯に逃れた
前638年:魯が邾を討ち、須句を復興
前638年:邾が魯を攻め、山東の升陘で大勝
前638年:宋が鄭を攻める
前638年:楚の成王が鄭を助けるために出兵し、宋の襄公を泓水で破る(泓水の戦い)。楚の軍が泓水という川を渡りきる前に攻撃することを襄公が許さなかったために、宋側は敗北した(「宋襄の仁」。身のほど知らずの思いやりの意)。襄公はこの戦いで矢により負傷。宋を中心とする同盟体制は瓦解。楚は宋を一時的に支配下においた
前638年:秦の穆公が晋の重耳を楚より招く
前637年5月:戦傷がもとで、襄公が死去
前637年:晋の恵公が重病となったために、秦の人質であった太子圉が逃げ帰る。最終的に恵公は死去したため、圉が即位した(懐公)
前637年:楚が陳を攻撃
前637年:東周の襄王が翟(狄)に鄭を討伐させる
前636年:秦の穆公が楚の成王の同意を得て、兵を出して晋の重耳を帰国させ、絳で即位させる(文公)。また、懐公を殺害した。文公は一族同士の内紛を防ぐために、一族以外の人間を積極的に登用するも、却って公室の勢力が弱体化していく
前636年:東周の襄王に対して、弟の王子帯が反乱。狄とともに襄王を攻撃し、襄王は洛邑を追われ、鄭の氾の地に逃亡。王子帯は襄王の后と密通しており、狄は襄王を恨んでいた
前635年:衛が山東の邢を滅ぼす
前635年:文公が王子帯を討ち、襄王を洛邑王城に帰還させる。結果、河南の温などの地を獲得した
前634年:楚が湖北の夔を滅ぼす
前634年:楚が魯と斉を攻めて、山東の穀を落とす
前634年:楚が宋を攻める
前634年冬:晋の文公が、襄王帰還の功績により、東周から南陽を得る。その後、文公は東夏(殷の四方にあたる)を平らげた
前633年:斉の孝公が死去。孝公の弟が太子を殺害して即位した(昭公)
前633年:楚が陳・蔡・鄭・許と連合して宋を攻撃
前633年頃:晋が中軍・上軍・下軍の三軍制になる。これらの軍の将と佐(副将)には有力氏族の出身者が充てられ、彼らの多くが卿を兼ね「六卿」となる(当時の六卿は固定されていない)。これらの軍は車兵が中心だったが、一方で歩兵部隊も存在(左行・右行)。なお、後に六卿は県を世襲的に支配
前632年:晋の歩兵部隊に中行が加えられ、左行・右行とあわせて三行制となる
前632年:宋が楚を離反して晋に付いたために、楚が鄭・許・蔡・陳を率いて宋に侵攻し、都を包囲。これに対し、晋は宋の要請を受けて出兵し、楚の同盟国となっていた曹・衛2国を降伏させる。一方の楚は衛を救った。なお、晋の曹攻撃の背景には、晋の文公(当時はまだ即位前)が曹を訪れた時、曹の君主共公が無礼を働いたという事件があった。共公は一時捕虜とされ、領土の一部は宋に与えられた
前632年4月2日:晋の文公が、斉・宋・秦・「群戎の師(軍)」とともに城濮(今の山東省鄄城県西南)にて楚・陳・蔡・鄭・許・「群蛮夷の師(軍)」の連合軍を破る(城濮の戦い)。両軍ともに1000両以上の戦車隊を擁していたという
城濮の戦いの展開
この戦いの際に文公は自軍を三舎分(3日分の行軍距離)退けたが、これはかつて楚の成王に厚くもてなされたことへの御礼としての約束に基づくという
晋軍の左翼の戦車隊は虎皮をかぶせていた
晋軍の右翼は、撤退するふりを装い、木の枝を引きずり砂塵をわざと巻き上げ、楚軍の視界を遮断して、反転して攻撃。楚軍は100両以上の戦車を失った
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上図:城濮の戦いでの両軍の進路
前632年:衛の成公は楚に、次いで陳に逃亡
前632年:城濮の戦いの帰途、文公が践土(鄭の地)に臨時の王宮を築き、周の襄王を招いて、斉・宋・魯・鄭・衛・蔡・莒と会盟(践土の会盟)。この時に文公は楚の捕虜や戦車を周王に献上し、襄王から虎賁(近衛兵)などを下賜され、侯伯(覇者。諸侯の長)に任じられる。これにより、晋の覇権体制が確立。諸国は晋への貢納を義務付けられた
前631年:周の王子虎が魯・晋・斉・陳・秦と河南の翟泉で会盟
前630年:周が衛の成公の帰国を許す。これを受けて、成公は衛瑕らを殺し復位
前630年:晋・秦連合軍が鄭を包囲するも、間もなく撤退
前629年:狄が衛を攻め、衛は河南の帝丘に移る
前629年:鄭の公子瑕が鄭の文公に憎まれ、楚に亡命
前629年:晋にて、歩兵部隊が車兵の軍に統合され、五軍制となる
前628年:鄭の穆公が即位
前628年:晋の文公が死去。後継は襄公
前628年:衛が狄を攻め、両国は和睦
前627年:晋と楚が泜水という川を挟んで対峙。晋軍が渡河するために、楚軍は後方に退いたという
前627年:秦の穆公が晋の文公の喪に乗じて鄭への侵攻を行うも、鄭は滅ぼせずに代わりに晋の属国であった滑を滅ぼす。しかし、殽山(崤山)の戦いで晋の襄公に敗北
前627年:北狄が斉に侵攻
前627年:魯の文公が即位
前627年:魯が邾を攻撃
前626年:晋が衛を攻撃
前626年:楚の太子商臣が成王を殺害して、穆王となる
前625年:晋が秦を陝西の彭衙で破る
前625年:西戎の使者曲余が秦に降る
前624年:楚が河南の江を攻撃。これに対して、晋と東周が連合して楚を攻撃し、江を救援
前624年:秦の穆公が再び晋を攻撃し、これを破って領土を奪取
前623年:楚が江を滅ぼす
前623年:秦の穆公が戎王を伐って西戎を破る。このことから、穆公は西戎の覇者と呼ばれるようになる。穆公は西の戎の12国を併呑し、東は南北に下る黄河にまで領土を拡大
前622年:許の昭公が即位
前622年:秦が河南の鄀を滅ぼす
前622年:楚が安徽の六と河南の蓼を滅ぼす
前621年:晋の軍制が三軍制に戻る
前621年:秦の穆公が死去。177人の臣下が殉死し、人材を喪失した秦は衰退。領土も縮小する。後継は康公
前621年:晋の襄公が死去。これにより、後継問題が勃発
前620年:晋の霊公が即位
前620年:晋が秦軍を山西の令狐で破る
前620年:宋の成公が死去。これを受けて弟の子禦が太子を殺害して即位するも、宋人は子禦を殺害して、昭公を擁立
前619年:秦が晋を攻撃して、陝西の武城を奪う
前619年:東周の頃王が即位
前618年:晋で内紛が起こり、公側が諸大夫を殺害
前618年:楚が鄭を攻撃。これを受けて晋・宋などの諸侯が連合して鄭を救援
前618年:楚が陳を攻撃し、河南の壺丘を奪取
前618年:曹の文公が即位
前617年:晋が秦を攻撃し、陝西の少梁を奪う。これに対し、秦も晋を攻め、陝西の北徴を奪取
前617年:楚の穆王が陳・鄭と息で会盟
前616年:魯の大夫叔孫得臣が狄を山東の䶢で破り、首長を殺害
前616年:楚が湖北の麇を攻める
前615年:楚が安徽の群舒の反を討つ
前615年:秦が晋を攻撃し、山西の羅馬を奪い、河曲で両軍が激突
前614年:陳の霊公が即位
前614年:邾が山東の繹に遷都
前614年:邾の文公が死去し、定公が即位。一方で弟は晋に逃亡
前613年:楚の荘王が即位
前613年:東周の匡王が即位
前613年:斉の姜舎が即位するも、昭公の弟である姜商人が姜舎を殺害して即位(懿公)
前613年:晋の大夫趙盾が、宋・魯・衛・鄭・陳・曹・許などと河南の新城で会盟
前612年:蔡の文侯が即位
前612年:晋が蔡を攻撃し、首都を攻略
前612年:晋が諸侯と河南の扈で会盟
前612年:斉の懿公が魯・曹を攻撃
前611年:庸などが楚に背く。そのため、楚の荘王が秦・巴と結び、庸を滅ぼす
前611年:宋の昭公が夫人の王姫に殺害され、弟の文公が即位
前610年:晋が衛・陳・鄭と連合して宋を攻撃
前610年:斉が魯を攻撃
前609年:斉の大夫が懿公を殺害。斉人は桓公の子である恵公を擁立
前609年:魯の姫悪が即位するも、大夫の襄仲(東門遂)が姫悪を殺害し、宣公を擁立
前609年:秦の共公が即位
前608年:斉が魯と山東の平州で会盟
前608年:陳が晋に降伏
前608年:晋の趙盾が宋・陳・衛・曹と河南の棐林で会し、鄭を攻撃して、陳・宋を救援
前608年:楚が鄭を救援
前608年:晋が陝西の崇を攻撃
前608年:楚が晋との盟約下にあった宋を攻撃
前607年:鄭が宋を攻撃し、河南の大棘で宋軍を撃破。宋の武将華元を捕らえる
前607年:秦が晋を攻撃し、河南の焦を包囲
前607年:晋の趙盾が焦を救い、宋・衛・陳と連合して鄭を攻撃
前607年:晋の大夫趙穿が霊公を殺害し、文公の子である成公を擁立
前607年:東周の定王が即位
前606年:楚の荘王が伊水の上流にいた陸渾の戎を打倒。陸渾の戎は河南南部に出没し、周王室を悩ませていた。この後、荘王は洛水のほとりである周の国境(洛邑郊外)にて、観兵式を実施。これに対し、東周の定王は荘王に使者を送り、労をねぎらう。この時に荘王が使者に周室に伝わる9個の「鼎」の大小軽重を尋ねたという伝承が残る(「鼎の軽重を問う」)
前606年:宋が曹を攻撃
前606年:鄭の霊公が即位
前605年:鄭の公子姫帰生が霊公を殺害し、弟の襄公を擁立
前605年:楚で令尹(宰相)の若敖が背くも、敗北して滅ぼされる
前605年:秦の桓公が即位
前604年:楚が陳と結び、鄭を攻撃。これに対し、晋が陳を攻撃して鄭を救う
前603年:斉・魯が連合して陳を攻撃
前603年:山西の赤狄が晋に侵攻し、河南の懐などを包囲
前602年:斉・魯が山東の萊を攻撃
前602年:晋・宋・衛・鄭・曹・魯が山西の黒壌で会盟
前601年:晋が陝西の白狄と連合して秦を攻撃
前601年:楚が安徽の舒を滅ぼす
前601年:楚の荘王が舒国・蓼国を討伐した際に、句呉(後の呉)・越(百越という民族が主体となって建設)と盟約を結ぶ
前600年:晋の成公が宋・衛・鄭・曹と河南の扈で会盟。この会盟に陳は参加せず
前600年:晋の成公が陳を攻めるも途上で没する。晋軍は撤退した。後継は景公
前600年:滕の文公が即位。滕は魯を宗国(本家筋の国)としている
前600年:宋が滕を攻撃
前600年:楚の荘王が鄭を攻撃。これを受けて、晋が鄭を助け、楚軍を河南の柳棼で撃破
前600年:衛の穆公が即位
前599年:斉の頃公が即位
前599年:陳で夏姫の子である夏徴舒が霊公を殺害し、自立。夏徴舒は霊公の子とも
前599年:宋が滕を攻撃
前599年:晋・宋・衛・曹が連合して鄭を攻撃し、鄭は降伏
前599年:楚が鄭を攻撃したため、晋がこれを救う
前599年:魯が邾を討伐
前598年:楚が鄭を攻め、河南の辰陵で会盟
前598年:楚が陳を攻撃し、夏徴舒を殺害。陳では霊公の子である成公が即位
前598年:鄭が楚との同盟に背いて、晋側につく
前597年6月:楚が鄭を囲み、晋が救援のために出兵。道中で鄭は都を落とされ、楚に降伏した。晋側は主将の荀林父が撤退しようとするも、副将の先縠が勝手に進軍したために楚と全面衝突。結果、楚の荘王が晋軍を破る(邲の戦い)。楚は斉と同盟
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上図:邲の戦いでの両軍の進路。楚は晋と異なり、重要拠点の世襲化を避けたことに特徴がある。また、楚は前6世紀に中原との出入り口に長城「方城」を建設。「方城」は版築によって作られた
前597年:楚が江蘇の蕭を攻撃し、宋・蔡が蕭を救援。しかし、楚は最終的に蕭を滅ぼす
前597年:宋が陳を攻撃し、衛が陳を救援
前596年:斉が山東の莒を攻撃
前596年:楚が宋を攻撃
前596年:赤狄が晋に侵攻
前595年:晋が鄭を攻撃
前595年9月:楚が宋に侵攻し、国都を包囲(~前594年5月)
前595年:曹の宣公が即位
前594年5月:兵糧に問題を抱えていた楚の荘王が宋から撤退。しかし、最終的に宋は楚に降る
前594年:晋が山西の潞を滅ぼす
前594年:秦が晋を攻撃
前594年:魯が畝に税を課す
前593年:晋が山西の赤狄甲氏・留吁・鐸辰を滅ぼす
前592年:晋が衛・魯・邾・魯と山西の断道で会盟
前592年:蔡の景公が即位
前592年:許の霊公が即位
前591年:晋・衛が斉を攻撃
前591年:楚の荘王が死去。後継者は子の共王