1-3 ヒッタイト古王国・中王国時代
前6000年頃:アナトリアのハジュラルに防衛設備が出現
前3000年頃:南ロシアの草原地帯で原インド・ヨーロッパ語を話す集団が確立。西方への移動を開始し、ヨーロッパ各地に移住
前2800年頃:アナトリアのアラジャ・ホユックにて恐らくハッティ人が小王朝を創始。王墓群が著名。この頃には既にハッティ人によって鉄を用いた剣が作られている
前2254年頃:アッカド王ナラム・シンが即位。彼はアナトリアに遠征した。カネシュに住むメソポタミア商人らの利益を守るためであったという。一方、アナトリアではハッティ王パンバ、カネシュ王ジパニ、クッシャラ王ティシュビンキ、おそらくプルシュハンダ王ヌール・ダガンら17人の支配者の連合軍がナラム・シンに対して反乱
前2100年頃:メソポタミア、エジプト、シリア、パレスチナ、アナトリア各地にハビルが出現。彼らはエジプトの権威に従わず、不当占拠や略奪などを行っていたと考えられ、伝統的社会制度に組み入れられない人々を指していたか
前2071年頃:ウル王シュルギによる第1次フルリ戦争(~前2068年頃)。シュルギは北部イラク、シリア、トルコにあった諸国に遠征。これらの地域にはフルリ人が多く居住していた
前2000年頃:インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト人がアナトリアに移住。クッシャラにてヒッタイト王朝が成立したか。当時のアナトリアには領主(ルバウム)が支配する都市群があり、プルシュハンダには「大領主」(ルバウム・ラビウム)が君臨。この頃には鋼が作られていたと考えられている
前2000年頃:アナトリアのカマン・カレホユックにて、インド・ヨーロッパ語族の侵入民が包囲戦を行ったか
前1900年頃:この頃より、アッシリア商人が東アナトリアに通商基地を建設し、商業活動を展開
前1830年頃:ハッティ人が支配するカネシュのカールム(商人居留区)が焼き打ちされる。ザルプワ王ウフナの攻撃が原因であったか。この攻撃にはハットゥシュのマートゥムも協力したとみられる。カネシュはアッシリア商人の拠点の一つであった
前1800年頃:ヒッタイト人のクッシャラ王ピトハナが夜襲によって、ワルシャマ王が統治するカネシュを奪取
前1730年頃:ピトハナの子でカネシュを拠点としたアニッタが、ピトハナ死後に発生した反乱を鎮圧。ハリュス川(現在のクズルウルマック川)内側の全域を征服し、「大王」を名乗る
アニッタ王の征服活動
ハッティ王ピユスティが2度、アニッタを攻撃
アニッタが、かつてザルプワの王ウフナによって奪われていた神像を奪還し、ザルプワ王フッジヤを打倒、カネシュに連行
ハットゥシュを包囲戦の末、夜襲により破壊された。結果、ザルプワなどの諸都市は征服される
この後、アニッタは南部で反乱を起こしたサラティワラを焼き討ちにし、プルシュハンダに攻め入り、その支配者を屈服させる。プルシュハンダの支配者は鉄の王座と鉄の笏をアニッタに献上。これにより、アニッタが「大領主」となったか
前1730年頃:カネシュが未知の敵によって破壊される。アニッタの帝国が崩壊したか。アニッタの後、アラフジナ王のズズがカネシュ王となる
前1730年頃:アジア系遊牧民がエジプトのデルタ東部に定着したか。彼らとともに彼らとともにヒクソス(フルリ人も基幹としていた)もエジプトに侵入したか。ヒクソスは第12王朝後期から傭兵としてエジプト人君主に仕えていたと考えられているが、彼らはカナーン諸都市からの移住者で、北方からの移住民(インド・ヨーロッパ語族、フルリ人)の到来と重なった人口増大がヒクソスをうんだとされる
前1711年頃:バビロン王アビエシュフが即位。彼の治世からヒッタイト人の侵攻が始まる
前1670年頃:クッシャラのヒッタイト王ラバルナ1世(伝説的な王)がヒッタイト人の小国群を統一し、ヒッタイト帝国(ハッティ国)を建国したか。以後、古王国時代(古ヒッタイト時代)と呼ばれる。なお、ラバルナはヒッタイト王の称号となった
前1650年頃:ヒッタイト王ラバルナ2世がハットゥシャ(以前のハットゥシュ)を再建し、クッシャラから遷都。自身はハットゥシリ1世と改名
ハットゥシリ1世の征服活動
都市シャフイッタを完全に征服し、ツァッパルを破壊
治世2年目にヤムハド王国に遠征し、ハラブの港湾都市アララハを破壊したが、アルザワ諸国(ヒッタイトの西南にある印欧系のルウィ人の国々)との小競り合いの影響で撤退。その途上でフルリ人らの支配地域を攻撃した。この後、アナトリアに戻り、アルザワ諸国の脅威を取り除いたが、フルリ人がアナトリア東部に攻撃を開始
こうした遠征の翌年には再びシリア遠征を開始し、ツァルンティを破壊。また、アダルルの山中でハッスとハラブの連合軍を破り、ユーフラテス川を渡河、ハッスの征服を成し遂げる。また、ハッフ軍と対峙し、ツィッパスナの町を破壊し、ハッフを破壊。なお、ハットゥシリはウルシュという町を攻撃した際に攻城塔や破城槌を用いたという
こうした幾度の遠征によって勢力の拡大は達成され、メソポタミア北部のティクナニ国などを従えている(ティクナニ王トゥニプ・テシュプはフルリ人で、ハビルを傭兵などとして組織)
息子らと娘が相次いでハットゥシリを裏切ったために、彼らを排除もしくは追放。甥もまた排除され、パンク(貴族会議)にて孫のムルシリ1世を後継者にして養子であると宣言した
前1620年頃:フルリ人がキリキアを奪取するも、ハットゥシリがこれを奪還
前1620年頃:ハットゥシリ1世が戦いで負傷し帰国。やがて死去し、ヒッタイト王ムルシリ1世が即位
前1600年頃:ムルシリ1世がユーフラテス河岸地域に遠征を行い、ヤムハド王国と対決
前1600年頃:この頃より以前に、ウィルサ(トロイア)がヒッタイトに服従
前1595年頃:ムルシリがヤムハド王国を滅ぼし、ハラブを破壊。また、同じ時期にはエブラも破壊されたようである
前1595年頃:ムルシリ1世がサムス・ディタナ統治下のバビロン第1王朝を攻撃。バビロンは占領され、バビロン第1王朝は滅亡。ムルシリはバビロンに留まらずに退却したが、その途中でフルリ人を撃破している。この頃がヒッタイト古王国の最盛期であった
前1595年頃:フルリ人がキリキアを奪う
前1590年頃:カッシート人がバビロンで王朝を建てたか(カッシート王朝)。ムルシリはカッシート王朝と同盟を締結
前1590年頃:ムルシリ1世が義弟のハンティリに殺害される。ハンティリはヒッタイト王に即位したが(ハンティリ1世)、以後もヒッタイト王家では謀叛が相次ぐ
ハンティリ治世中の出来事
アナトリア東部と南部にヴァン湖付近から侵入したフルリ人が勢力を拡大。ハンティリ1世の妻と子らは当時、戦争状態にあったフルリ人らに捕らえられ殺害された
干魃や黒海南岸のポントス地方の山岳部族カシュカ族、アルザワ諸国の侵入も相次ぐ
この機にヤムハドが独立し、勢力の一部を回復
前1590年頃:フルリ人がアナトリア南東部にキズワトナを建国
前1560年頃:ハンティリ1世の同盟者であったジダンタが、ハンティリ及び彼の後継者らを皆殺しにし、ヒッタイト王となる(ジダンタ1世)
前1550年頃:フルリ人の諸国がミタンニ王国(ミッタニ王国)に統一される。ミタンニは、メソポタミア北西部のハブル川流域を中心とした地域を掌握
前1550年頃:ジダンタ1世の子アンムナがジダンタを暗殺し、即位。アンムナの治世にも干魃やフルリ人、アルザワ諸国の侵入が相次ぐ
前1530年頃:アンムナの死後、アンムナの姻戚フッジヤがアンムナの息子らを殺害し、即位(フッジヤ1世)
前1525年頃:テリピヌ(アンムナの子か)がフッジヤ1世に対する無血クーデタによってヒッタイト王に即位
テリピヌ治世における出来事
第一王子が王位を継ぐことなどを定めたテリピヌ勅令を発布(この王位継承はなかなか実施されず)
バビロニア式の楔形文字表記の導入(時期はテリピヌ以前の可能性も)や『ヒッタイト法典』の集成などを行い(『ヒッタイト法典』はテリピヌの頃までに制定された)、パンクの権限を縮小
ハットゥシャや地方都市の大規模開発を行う
失地回復のためにキズワトナ国との国境地帯の諸都市に遠征を行い、キズワトナ王イシュプタフシュと友好条約を結ぶ。結果、ユーフラテス川流域まで領土が拡大
ヒッタイト東部にフルリ人が襲来
前1500年頃:テリピヌの治世が終わり、ヒッタイト王タフルワイリが即位(テリピヌの次の王はアルワムナの可能性も)。中王国時代(中期ヒッタイト時代)が始まる
前1500年頃:この頃から、カシュカ族がヒッタイトへの侵攻を激化させる。当時のヒッタイト王ハンティリ2世(アルワムナの子か)がハットゥシャの城壁を強化した要因は、このカシュカ族の侵攻であると考えられている。カシュカ族はヒッタイト帝国の神聖な都市ネリクを征服
前1500年頃:カリアやリュキア、キリキアなどのアナトリア南部の沿岸地域の住人らが海賊行為を行う。キプロスやエジプトなどがその対象であった
前1500年頃:カッシート王アグム2世がハナ王国からマルドゥク像などを奪還。マルドゥク像はヒッタイト軍によってハナ王国に持ち去られていたか
前1500年頃:ミタンニ王パラッタルナが勢力を拡大させ、アララハやハラブなどを勢力下に。キズワトナを服属させ、カトナを支配
前1500年頃:小アジア西部でアヒヤワ(ミケーネ人)が興隆。ヒッタイトに対抗し、キプロス島でも軍事行動を展開。また、ウィルサ(トロイア)の問題にも干渉し続ける
前1470年頃:キズワトナ王ピリヤがアララハ王イドリミと条約を結ぶ
前1470年頃:ヒッタイト王ジダンタ2世が即位。彼はキズワトナ王ピリヤと条約を結び、キズワトナに奪われていた土地の回復などに成功
前1470年頃:高官ムワタリがヒッタイト王位をフッジヤ2世から簒奪(ムワタリ1世)
前1460年頃:ムワタリ1世が護衛隊長ムワーの陰謀によって、先王の王子であるヒムイリ及びカントゥッツィリに殺害される
前1460年頃:キズワトナ王シュナッシュラがアララハ王ニクメパと国境紛争を抱える
前1460年頃:トゥトハリヤ1世がヒッタイト王に即位
トゥトハリヤ1世の征服活動と治世中の出来事
西方のアルザワ諸国(アルザワ、ハッパッラ、川の国セハ。セハはトロイアの南東)へ遠征を行い、エーゲ海にまで領土を拡大
上記遠征の帰途にて、西方諸国はアシュワ同盟(なお、アヒヤワはアシュワと政略結婚をしていたらしい)という22か国(トロイアも含まれる)から成る反ヒッタイト同盟を結成したが、トゥトハリヤはこれに対して勝利し、アナトリア西部を征服(1万の歩兵などをハットゥシャに連行)。アシュワ王ピヤマ・クルンタらを捕らえ(彼の兄弟は援助を集めようとして失敗した)、その子クックリをアシュワ王として属国化
クックリが反乱を起こしたため、これを滅ぼす(アシュワの乱。これにミケーネ人が関与したか。このときにヒッタイトがアナトリアのエーゲ海沿岸沖の島々を占領したと思われる)
西方に手一杯であった隙に王国領に侵入したカシュカ族とも戦い、これを撃退
ミタンニに従属していたイシュワ国に勝利
キズワトナ王シュナッシュラと条約を結び、ミタンニからの独立を支持した上で、相互防衛協定を締結、事実上の保護国とする
上述の行動の後、シリアに遠征し、ミタンニ勢力下のハラブを破壊し、ミタンニ領を侵略。その直後にキズワトナを併合した
アヒヤワの支配者(軍事的指導者か)アッタリッシャに襲撃され、王位を失ったルッカ(リュキア)の王マドゥワッタがトゥトハリヤの宮廷に保護を求めたため、王は彼を山岳地帯のジッパスラ王としている(アルザワを侵略することを条件とした)
アッタリッシャがアナトリア西海岸にてヒッタイト軍と交戦(ヒッタイト側は100台もの戦車を投入したという)。この後、マドゥワッタはアルザワを襲撃したが、その王クパンタ・クルンタの反撃によって、ジッパスラを喪失
トゥトハリヤによって再びマドゥワッタがジッパスラの王位を回復したが、アナトリア西海岸にてアッタリシャの襲撃を受ける(ヒッタイト側は100台もの戦車を投入したという)。そこで、ヒッタイト軍は将軍キスナピリ率いる援軍をジッパスラに救援に送り、そこに常駐させた
上記の後、マドゥワッタがアルザワ王と結び、他の侯国を扇動してヒッタイトに反乱。キスナピリも欺いて殺害し、アルザワ王クパンタ・クルンタの暗殺を謀り、その王女と結婚してアルザワ王となった。マドゥワッタは次に、アッタリッシャと結び、ヒッタイト傘下の独立国アラシヤ(キプロス島)に侵攻
義理の息子アルヌワンダ1世を存命中から共同統治者とする
前1457年頃:エジプト王トトメス3世がメギドの戦いに勝利し、反エジプト同盟の参加国を従わせる。この後、トトメスはカッシート、アッシリア、ヒッタイトに朝貢を促す
前1447年頃:トトメス3世の第8回アジア遠征。王のアジア遠征の中で最大規模のもので、エジプト軍はハラブおよびカルケミシュ近郊でミタンニ軍を破り、ユーフラテス川東岸へ渡る。帰路、エジプト軍はテュニプを攻略し、カデシュを再び占領。カッシート王朝やアッシリア、ヒッタイトはエジプトのシリア支配を承認した
前1440年頃:ミタンニ王サウシュタタルが即位。アラプハ王国を支配下におき、アッシリアを制圧。アッシリアの首都アッシュルを略奪し、臣従させる。ウガリットなども支配下に置き、北シリア全域・キズワトナにその版図を拡大、ミタンニ王国の最盛期を築く。エジプト王トトメス3世に敗れることもあったが、エジプトとは和解を成立させる
前1440年頃:ヒッタイトにおいてカシュカ族の侵攻が再開、帝国は衰退する。ヒッタイト王アルヌワンダ1世は条約を通してカシュカをまとめあげようとするも成果はあまりあがらず
その他の勢力の動向
アルヌワンダに対し、帝国の南東部にあったパッフワ市の王ミタが離反。ミタと結んだイシュワ国がヒッタイト帝国内のクンムフ市を攻撃した。なお、アルヌワンダはキプロス島(アラシヤ)の領有権を主張
前1420年頃:ヒッタイト王トゥトハリヤ2世が即位
トゥトハリヤ2世の治世における出来事
カシュカ族が侵攻し、ネナッシャの町がその国境にされる
アルザワの侵攻によって、ヒッタイト領南部の「下の国」がその支配下におち、トゥワヌア及びウダの町が国境となった
アラウワナの攻撃でガッシャ国全土が滅亡し、アッジの攻撃でハットゥシャ東方にある上の国々全てが滅亡し、シャムハが国境となる
イシュワの攻撃でテガラマ国(ハットゥシャ東方)が破壊され、アルマタナによってキズワトナの町がその国境となる
結果、ハットゥシャも都市タピッガとともに焼き払われ、恐らくヒッタイト王はサムハ(ハットゥシャ東方)に遷都した。サリッサの大神殿も炎上しているが、カシュカ族との抗争の影響とも考えられている
前1400年頃:ヒッタイトが滲炭法(炭を使って鉄を鍛える)で鋼を開発。これにより、鉄が実用的な金属となる。更にヒッタイトはスポークのついた二輪戦車(馬が牽く)によって強大な軍事力をもつ
前1397年頃:エジプト王トトメス4世が即位。ミタンニ王アルタタマ1世は彼と同盟を結んだ。なお、アルタタマはヒッタイト軍を押し返したという
前1388年頃:エジプト王アメンヘテプ3世が即位。アルザワ王タルフンタルドゥはエジプトと同盟を結び、王女を嫁がせる。この頃のアルザワ国の領土は中央アナトリアにまで届いていた
同時期のヒッタイトの動向
ヒッタイト王トゥトハリヤ2世が息子のシュッピルリウマ1世の助けを得ながら、北東部のカシュカとアッジ国、ハヤサ国の領土を攻撃。結果、カシュカの9つの部族を下し、荒れた土地に民を入植させた。更にシュッピルリウマはアルザワ軍との戦いを行う
前1380年頃:ヒッタイトがミタンニ王国を破り、メソポタミア北東部を奪取
前1379年頃:ミタンニ王シュッタルナ2世の娘がアメンヘテプ3世に輿入れする。後のミタンニ王アルタシュマラは王宮内の反逆分子に暗殺され、傀儡王のトゥシュラッタが即位させられる(後にはトゥシュラッタの娘がアメンヘテプ3世の妃に)。やがて、トゥシュラッタは反逆分子を一掃するも、反トゥシュラッタ派はミタンニ東部にアルタタマ2世を擁立
前1370年頃:アムル侯アブディ・アシルタが死去。彼はエジプトに属していると装いながら、ヒッタイトと通じ、自らの支配領域拡大を図っている。エジプト王アメンヘテプ3世の晩年には、ヒッタイトの進出やアジア臣侯の離反が始まっている
前1360年頃:ルッカ(トルコ南西部のリュキア)の海賊やシェルデン人(後のサルデーニャ人)、デネン人(キリキア人)の王がアマルナ書簡に記される
前1351年頃:エジプト王アメンヘテプ4世が即位。彼はアジアへの親征を行わず、シリアの都市国家間の反目が激化。また、ミタンニとの同盟政策も破綻
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