観た。クリスチャン・ボルタンスキー。《前編》
入り口入って初っぱなから、人が血を吐く音が聞こえた。血を吐く人の映像の前にぎゅうぎゅうと列をなして大学生(おそらく)達が集まっていた。
みんな黙っている。時々おじさんが咳をしたが、血を吐く人の音の前では、紙が畳に落ちたような印象しか残らない。
あまり長くは見なかった。今後の精神衛生を考えると、その映像から発せられるものをあまり受けとりたくなかったからだ。
しかし、次の部屋に行っても音はかなりよく聞こえていた。他の人達はあの映像を見てどう思っていたんだろうか。
「初っぱなから強いのが来たな」と思いつつ、「でも初っぱなに配置したのは親切だよな」とも思う。
「血を吐く人の映像があります」ということを知らずに来る可能性は高い。その映像についてポスターには載っていないからだ。
知らずに来て、「ギャラリーの奥から」血を吐く音が聞こえてきたら、なんなのか気になって落ち着かないかもしれない。音響によっては、どこかの展示室で事件でも起こったかと思うかもしれない(大事件である)。
次。
電光の板が、桁の大きな赤い数字をカウントしている。なんとなく、あれが急に止まったら怖い気がした。
写真のパネルの間を、展示室の地図を持った鑑賞者達がうろうろする。その人達までインスタレーションの一部のように見えてきた。
奥の上方に青い矢印が見えると思ったら、青い照明に縁取られたシャツだった。後から聞いたところによるとあれは磔らしいが、私はシャツがどうにも楽しそうに見えた。
骸骨、人の横顔など、ゆらゆら動く影絵を、三つの窓から覗き混む。
層の問題なのか鑑賞者達はやたらマナーが良く、窓の前を占領しないように気を配っていた。雰囲気に合わせたのか、譲るのも礼を言うのも無言の目礼で行われた。
影絵を作る照明は白熱電球の明るさで、骸骨もコミカルな造形だ。影絵はずっと穏やかに動いている。
しかし、無い。あるけど無い。止まっている。この部屋からは永遠にどこにも行けそうにない。地獄より天国に近い。この場合に天国というのは、絶望しようとした瞬間に絶望がなんだったか忘れる場所のことだ。
次。
天井から拍動する明かりが一つ下りている。
測ってみたところ自分の脈より遅かったが、良く考えたら自分の脈は大抵の人より速いので比べる意味はそう無かった。
その部屋では「壁に背中を付けてもいい」という認識が自動的に生まれるようだった。さっきまで整然と動いていた人達はなぜかみんな壁際に立ち止まって、ぼんやりと中央の明かりを見上げていた。
最後になんとなく明かりに寄っていったのだが、同時に部屋の反対側からもう一人明かりに寄ってきて、同時に次の部屋に出た。
どちらかといえばその光景は後ろで見ていたかった。
次。
展示室はいたるところに顔写真がある。時としてタイルのようにならんでいる。
人種的に彫りの深い顔が多く、目元が完全に影になっている白黒の大きな写真が並んでいるのはちょっと怖い(並んでいるのが彫りの浅い顔だったとしてそれはそれで別の怖さがありそうだけど)。
写真は正面から照明が当てられていたり、照明に囲まれていたりする。鑑賞者の知らない、恐らくは有名人ではない海外の人達は、そうしていると忘れられた聖人の系譜のようだった。
錆びた四角い缶が積み上げられていて、一つ一つに小さい、不鮮明な写真が貼ってある。
千と千尋の釜爺の引き出しを思い出した。しかしあの棚のような生っぽい感覚はない。缶が錆びているからか。写真が不鮮明で白黒だからだろうか。
骨が入っていそうだなと思った。怖い話ではなく、「完全に停止していること」が物質として缶に入っているという意味で、一番感覚に合うのが骨だった。
誰かに記憶されて語りかけられるものとしての墓とは違った。停止していたし、少なくともあの場においては誰の悲しみでもなかった。
後編に続く。
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