短編小説 | 好きな人の好きな人 #1
文章で人を好きになることはあるのだろうか。
金木犀の匂いは秋の訪れを感じる。前の恋人と別れてからどれくらいたったっけ。寒さは人肌を恋しくさせるから嫌いだ。こんな季節になってもカフェイン中毒のわたしは無性にアイスコーヒーが飲みたくなり、コンビニに向かった。
ふと、そろそろ新刊が出る頃だと思い出し、ガラス張りの壁に並んだ目のチカチカするような本の中から、いつも立ち読みする雑誌をパラパラとめくった。当たりもしない占いを見るため。次の新刊が出る頃にはこの占いが当たっていたかどうかなんてどうせ忘れているのに。
だけど。
漠然とした何もわからない未来よりちょっとでもいいことを信じて毎日を送りたい。気休めにしかならないが雑誌の後ろの方にあるパステルカラーのページの中のおひつじ座のところだけを眺めた。
恋愛運★★★★★
運命かもと思うような人と出会うかも。
直感でいいなと思ったことを信じて。一歩目は自分から。
運命なんて信じない。だって、今まで運命かも、と思ったことは全部違っていたから。
でも。
悪い結果の時は信じないくせに、良い結果だけ信じてしまう女子の心理。なんとなく、言葉に軽さを感じながら、その運命とやらにあやかりたい自分がいた。
占いを見終えたあと、パラパラと他のページを見ていたが、あるページで捲る指が止まった。そして時も止まった。
なんてことないパン屋さんの紹介だった。ちょっと古めかしいレトロな商店街の中にある、昔の喫茶店みたいなパン屋さん。白いザラザラした看板の土台の上に、ごてごてした派手めのくすんだ色の文字の看板がいかにも昭和感をだしている。
ベーカリー クローバー
60年代のジャズがレコードでかかっていそうな、いや間違いなくかかってる。そんな重厚感ある店内で、てかてかとおひさまに照らされ光る、黒ごまのまぶされたあんぱんが美味しそうなイートインのある普通のパン屋さんだった。
イートインスペースで食べているお客さんの後ろ姿、新聞を広げた喫茶店にいるいる系の暇そうなおじいさん、奥のカウンターには黒髪で背の高いひょろっとした幸の薄そうな店員らしき人が小さく写っている。
私が目が奪われたのはその写真とともに載っていた、パンのコラムだった。
【焼きたて、あるよ。】
そこから始まる文章は流れるようにナチュラルで、声が聞こえるように軽やかで、パンの焼きたてのふわっとした香りを思い出してしまうほど色彩豊かだった。
食べたい。
ごくりと唾を飲み込んでしまいそうだった。そこには、パンを作る人への労りも、パンを食べる人への愛情も詰まっていた。
こんな短い文章でこんなに人を動かせることができるの?
私は何度もなんども読み返し、本来買う予定だったアイスコーヒーを買うことも忘れ、その雑誌を買って帰った。
「何度見てもきれい。」
うっとりしてた。文章でここまで魅了されたことは初めてだった。いやむしろ、今まで文章なんて、書くだけでしょ程度でしみじみその良さを考えたこともなかった。
「イチノセ シロ」
その文章を書いた人は「イチノセ シロ」という人らしかった。
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