短編小説 | 好きな人の好きな人 #2
「ふとん、干さなきゃ」
その空の下に暮らす人は、みんなそう思ってしまうんじゃないかってくらい、すがすがしい土曜日の朝だった。がらがらの電車に乗ってわたしは、あのパン屋に行った。
自分では普段買わないような、ちかちかする鮮やかな雑誌を入れるため、いつもより少し大きい皮の鞄で家を出た。
ぼーっと窓の外を見ながら電車に15分くらい乗っていた。駅を降りるとすぐに商店街だった。
いつから売られてるかわからないくらい古い洗濯機のある電気屋さん、日に褪せて黄色くなったプリクラがたくさん貼ってあるクレープ屋さん、散った油でぎっとりテカる狸の置物のいるたこ焼き屋さん。
行き交う人たちと肩をぶつけそうになるくらい、すごく細い商店街だった。
もう10年くらい大阪で暮らすわたしですら、こんな商店街があることを知らなかった。
ベーカリークローバーを探す。あの昭和から時が止まったようなパン屋さんを。
雑誌に載ってたざっくりした地図とGoogleで検索をした場所を見比べながら店に向かった。
ベーカリークローバーは駅から10分くらいのところにあった。その間に300円のお好み焼きやら、お肉屋さんの揚げたてコロッケやら、誘惑されそうになりながらてくてく歩いた。
「あった」
ベーカリークローバーは角の店だった。
やっと見つけたその店は、雑誌で見るよりはるかに薄汚く、さびれた感じがした。でも店内には、朝からでもすでにお客さんが何人かいるらしく、マスターらしき人と談笑してる声が聞こえた。まるで、オレンジか黄色の楽しいオーラが出ているように見えた。
おじさんばっかで行きにくい、とわがまま女子の思考が一瞬よぎったが、ここまで来たのに引き返すわけにもいかず、わたしは雑誌を握りしめその店に入った。
「いらっしゃい」
マスターは、いつもと違う層のお客にちょっと戸惑いながらわたしを見た。手に持っている雑誌を見て、「あ、なるほど」みたいな顔をしてわたしを好きなところへどうぞと案内してくれた。
入ってすぐの窓際にパンがあった。数も種類も多くない。鎮座して小さくわたしを眺める黄金色のパンたち。雑誌でみるよりもはるかに美味しそうだった。
店内はパンのいい匂いであふれていた。奥はパン工房らしいが手前は喫茶店。想像していた60年代のジャズはかかっておらず、かわりに平成生まれのわたしでも、聞いたことあるような、昭和の歌謡曲がかかっていた。カントリー調の置物や古いピアノなどもあり、マスターは黒ひげの生えた50代くらいのいかにもマスターって感じ。お客のおじさんたちは競馬新聞をみていた。
色んな要素がミスマッチ。オシャレさはカントリー小物以外殆どない。どうして雑誌に載ったのかさえわからぬこの異質さ溢れる店内が、わたしは一瞬で気に入ってしまった。なぜかわからない。飾ってないかんじが好きだと思った。
「パンは基本100円やで。あ、大きいのは200円の時もある。飲み物は全部400円。キャッシュオン式って若い子もわかるんかいな?その場で払うシステムね。パンはセルフサービス。パンを持って帰りたかったら、あのへんに袋あるから自分で詰めや。」
それだけ言うと、マスターはお客さんとまた話の続きを始めた。
このマスターは顧客満足度や売り上げに興味ないらしい。すっごく適当で単純明解なシステムに拍子抜けした。
わたしはマスターにホットコーヒーを頼み、セルフサービスとやらで、てかてかのあんぱんを2つ取って、ホットコーヒーを持ってきてくれたマスターにキャッシュオンシステムとやらで600円を払った。
パン工房からいい匂いとともに人が出てきた。雑誌に写ってた幸の薄そうなひょろっとした同い年くらいの男の子。機嫌悪そうにパンを運んでいた。その子もあんぱんを食べてるわたしに気づくと、あれ?というような顔をした後、側にあった雑誌の表紙を見て、ああ!と、納得した顔をした。
幸薄そうな背の高いその子は雑誌で見たときには分からなかったが、とても優しい目をしていた。その目は、わたしが昔飼っていたゴールデンレトリバーのクロを思い出させて切なくなった。
「あの」
パンを運び終え、パン工房に戻ろうとしているその人に、わたしは無意識に声を掛けていた。
「この雑誌を見てきました。」
わたしは何を言ってるかよくわかってなかった。生まれて初めて初対面の男性に自ら声を掛けている。
「…はい。」
クロに似たそいつは、クロとは大違いなくらい愛想なく、ぶっきらぼうでめんどくさそうにちょっとびっくりした顔で返事をした。
「あの」
負けじとわたしも話を続けた。
「この、雑誌のこのページのこの文章書いた方とお会いされましたか?」
たぶん、この人なら立ち止まって正直に言ってくれると思った。マスターはお客さんと話してて忙しそうだし、会話を止め、へんなおじさん達に一緒に絡まれるのも嫌だった。クロの目をしたこの人ならちょっと時間かけて教えてくれる。無意識にそう思い、わたしは何も考えず話しかけていた。
「それ」
もはやクロに見えてしかないそいつは、3秒くらい黙った後に静かに言った。
「僕が書いた」
帰りの電車で私は大量に買ったあんぱんをまた食べながらぼーっと考えていた。いつもより大きい鞄の中身はあんぱんがたくさん入っていた。
あの文章を書いたあの人は、イチノセシロ。あの人がイチノセシロ。クロの目をしたイチノセシロ。あんぱんの甘い餡を口いっぱいに広げ、ずっと考えていた。
文章で好きになったあの人は、わたしの想像とは全く違っていた。もっと知的でスナフキンみたいな我が道を生きる人かと思ってた。実際は幸薄い機嫌の悪い無愛想なパン屋の男の子だった。
だけどもやっぱりどうしても気になる。
イチノセは、昔は物書きだったらしい。上手くいかず今はパン屋の仕事してるんだって。雑誌の取材が来たときに、昔、書く仕事してたから書いてみたらということになり、たまたま採用されたらしい。
「イチノセシロ」
Googleの検索窓に入れてみた。
ほとんどヒットしなかったが、1つだけそれっぽい内容を見つけた。
なにかのプロフィールだったようだ。
自己紹介などほとんど埋まってない。
ただ、好きなものの欄に「星のない夜」と書いていた。
なぜかわからないが間違いなくあの人だ。と直感で感じた。
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