【本質以外】物事を考える
物事を考える時に、自分は抽象と具体の間を反復横跳びするような考え方しかできない。
具体例から帰納的に考えるとか、逆に原理原則から演繹的に考えるみたいな秩序だった考え方ができない。
どういう考え方をするかというと、まず葉っぱの方を考える(極めて些末な具体例)。葉っぱの方を書いていると、だんだん根っこになりそうな部分がいくつか見えてくる。そうすると根っこの部分について考え始める。この反復作業を繰り返すことで段々根っこと葉っぱがつながる枝や幹が育っていくという感じだ。リゾーム的思考といえば聞こえがいいのだろうか?
この考え方の悪いところはかなり終盤にならないと全体像が見えてこないこと、終わるまでの時間というものがほとんど見えないというところにある。締切にはたいてい間に合わなくなる。
ひどい例だとすでに構造があるものを破壊してしまうという衝動も結構持っている。例えば順不同で解けるような小問があった時に1番から10番まで順にといていくということが絶対にできない。1番から3番まで解いて、7番から10番解いて最後に4から6番を解くみたいな。そういうランダムな動き方をしないと非常に落ち着かない。これも進捗率みたいなものが分かりにくくなる非常に良くない習慣である。
割と本に関しては、最初から最後まで読むことができる。まあ、ただそれは電子書籍からかもしれない。電子書籍は前行ったり後ろ行ったりを繰り返すことがめんどくさすぎる。逆に紙の本だと結構真ん中をちょくちょく読むみたいなこともやってしまいがち。小説はあとがきから読むよね。
なぜこんなことをするのか考えてみると、結構細かいことが好きな一方で全体像が見えないとやる気を失うという気質を持っているからだと思う。
本の後ろとか小問の後ろを終わらせると終わりが見えたような気がする。終わりが見えればなんとなく落ちつくというところがあるんだろう。
このように考えると、自分がネタバレが結構好きな理由につながってくる気がする。全体像が先に与えられていると鑑賞の上で安心感が出てくるのだ。
全体像の把握が好きと言うなら、演繹的な思考に近いのではという気にもなる。確かに消費の時はそのモードでも大きな問題にはならない。消費の場合は全体像は固定されており、大きな逸脱には繋がらないからだ。
しかし自分でものを作らなければならないとなると話が別だ。
とりあえず根っこを考えることはできる。しかしその抽象度が高すぎる状態から、枝や幹を自分で構成するのは苦手で、枝や幹を作るために葉っぱのことを考え出すと、葉っぱの方に気が行ってしまう。そうすると我を忘れ大量の葉っぱまみれになってしまう。しかし、葉っぱに埋もれそうになる中でよく考えると枝のことを考えないとやばいということに途中で気づき、急いで抽象的なことを考え始める。こうなるとパニクった反復横跳びのようなことが始まってしまう。これは非常に疲れるし、先が見えないので結構ストレスが溜まる。先が見えない中走り終えても、実は根に微妙に繋がってなかったことに気付き、接ぎ木でごまかすみたいなことにもなりがちだ。剪定すべき枝も増え、徒労に終わる部分も多い。
本質への道は遠く険しい。
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