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【短編小説】かいそうバス

なぜここにいるのか。
気が付くと私はバスに乗っていた。くたびれた背広と革靴。いつも通りの冴えない男は、後部座席から二列目の窓際に一人で座っていた。

「このバスは回送車です。終点まで止まりません」

回送車になぜアナウンスが流れるのか。まぁ、どうでもいい。とても疲れた。このまま眠ってしまいたかった。

窓にもたれて目をつむる。バスの揺れが心地いい。ガタンと大きな揺れを感じて目を開けると、その先の景色に私は驚愕した。それは紛れもなく私の生まれ育った里山だった。トンビが旋回する高い空。川底の石が見渡せる透き通った川。ヤスを持って獲物を狙う子ども達。

「あっ、かあちゃん!」
一瞬の視界で捉えた母の姿。頬をガラスに貼りつけて見ようとするも、母の姿は遠ざかっていく。20年前に亡くなった母は、若々しい姿だった。

「どういうことだ?」

そうこうしていると、今はもう跡形もない生家せいかが見えてきた。学生服の私が『行ってきます』と畑の方に向かって挨拶している。畑の陰から腰の曲がった祖母がよいしょと体を起こし、笑顔で手を振っているのが見えた。

「ばぁちゃん……」
母も祖母も子どもの頃の記憶のままだった。目頭が熱くなる。

学校が見えてきた。木造の教室。机。黒板。弁当。体育祭。剣道部。一瞬で通り過ぎているはずなのに、当時の様々な場面がコマ送りのように映し出される。

そう、あれは中学3年生の冬だった。

貧乏だった我が家の弁当は目刺めざしと梅干しが入っているだけの弁当だった。ふたで隠しながら食べる弁当。それをからかう心無いやからもいた。私は無視を決め込んでいたが、ある日、母の悪口を言われて、とうとう堪忍袋かんにんぶくろの緒が切れた。窓際に居たそいつの頬のすれすれをこぶしでついた。その先にはあった窓ガラスが破砕はさいした。

女子生徒の悲鳴ひめいで我に返る。私の拳は血だらけだった。そんなことよりも、その傍にいた百合子の雪のように白い頬から流れる一筋の血を見て顔面蒼白がんめんそうはくになった。

百合子は村一番の金持ちのお嬢さんだった。誰にでも親切で、はかなげで、上品で、その名の通り百合の花のような人だった。みんなの憧れだった。

両親は私を連れて、百合子の家に謝罪に向かった。百合子の父親から罵声ばせいを浴びせられ、小さな村の噂はあっという間に広がり、私の家は村八分むらはちぶのような仕打ちを受けるようになった。

百合子に直接謝罪する機会もなく、やがて中学校を卒業し、私は家を出て、関西にある鉄工所で働きながら定時制高校へ通った。百合子もまた東京にある全寮制の進学校へ進んだと風の便りで聴いた。

行き場のなかった母たちは生涯あの村で暮らした。あの一件以来どんなにか肩身の狭い思いをさせたことだろう。私は一人だけあの村から逃げたのだ。


車窓はところ変わって、雑多な街、窮屈な市営住宅、灰色の煙が立ち上る景色が現れた。高校を卒業した私は、小さな土木事務所に就職した。仕事をしながら土木施工管理技士どぼくせこうかんりぎしの資格を取り、収入も安定した頃、妻の佳代かよと出会う。

佳代は5歳年下で、事務員として就職してきた。ころころとよく笑う可愛らしい女性だった。無口で不愛想な自分には不釣り合いだと自制しながらも、心惹かれる気持ちにふたはできなかった。

ある時、事務所のすみで泣いている佳代を見かけた。女性とまともに話したこともない私は何と声を掛けていいのかわからず、洗いざらしのタオルをぶっきらぼうに渡すしかできなかった。私はただ傍に居た。気が済むまで泣いた佳代は顔を上げクスリと笑った。
「何も聞かないんですね。木村さんらしい」
そう言って見つめ合うと、二人はキスをした。

30歳になる年に佳代と結婚した。二年後には女児が生まれ、妻は家庭に入った。家庭は妻に任せ、私はがむしゃらに働いた。娘の麻衣まいの成長の記憶がない程に。妻は何一つ文句を言わなかった。早朝から私の弁当を作り、どんなに夜遅くに帰ってきても温かい食事の準備をして待っていた。

いつしかそれが当たり前になり、いつくしむべき相手を『何でもしてくれる人』と、はき違えるようになった。完全な『甘え』だった。そんな愚かな私は、妻の身体の異変にも気付いてやれなかった。

麻衣が10歳の時、妻は乳癌にゅうがんで亡くなった。あっけなかった。受診した時にはもう手遅れだった。火葬場かそうばの煙突から立ちのぼる煙が、佳代の笑顔をかたどったように見えた。

葬儀の帰り道、泣き疲れて寝てしまった娘を背負い歩いた。途方に暮れるとはこのことだ。佳代の両親から麻衣を育てると打診されたが断った。佳代の最期の言葉がどうしても頭から離れなかった。

「麻衣のことお願いね。あなたなら大丈夫。きっとうまくやれるわ」
最期にそう言って笑ったのだ。

私は出張の多い現場の仕事を離れ、定時で帰られる仕事に移った。頭をへこへこと下げ、罵声を浴びせられながら、合わない仕事に明け暮れた。

家に帰れば『親の仕事』。毎日の食事の準備、洗濯、掃除、学校の準備物。『親の仕事』量の多さに辟易へきえきすると同時に、これまで妻にすべてを任せっきりだったことを恥じた。

麻衣はちょうど第二次反抗期を迎えようとしていた。ただでさえわからない異性の、さらに思春期の心情など理解できようもない。

毎日が地獄だった。

料理を作っても食べない。注意しても無視。学校の書類も出さない。意思疎通いしそつうができず、嫌われている自覚があった。いつしか、最低限の会話しかしなくなった。麻衣から笑顔が消えた。佳代が亡くなって、家庭のともしびがパチンと消えた。

娘が高校生になると、毎日弁当をこしらえた。
料理をするようになって6年。最初より断然うまくなったはずだが、唯一の家族に確かめようもなかった。ただ、弁当を残した様子もなく、朝起きると、きれいに洗った弁当箱があり、私はその弁当箱に毎日詰めた。ただそれを繰り返した。高校を卒業し弁当が必要なくなった。弁当を通した無言の交流もそこで途絶えた。

大学二回生になった娘は、突然、留学したいと言い出した。私は血の気が引くのを感じた。

「だめだ」

ただ一言だけ言葉を返した。麻衣は沈黙した。しばしの沈黙の後、テーブルに広げた資料を乱暴にかき集め、小さな声で呟いた。

「何も知らないくせに……」

「なんだって?」

「お父さんなんて、私の気持ちを知ろうともしないくせにっ! お母さんが生きていれば……!」

そう麻衣が泣き叫んだ時、私は後頭部にまるで鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。目の前が真っ白になる。「お父さん!」と叫ぶ麻衣の残像が見えた。

そして私はバスの中で覚醒した。

そうか……私は死ぬのか? 

再び車窓からの景色を見る。病室が見える。ICUで管につながれた自分が見える。ガラス越しに麻衣が何か泣き叫んでいるのが見える。何と言っているのかは聞こえない。

「麻衣、ごめんな。私は寂しかったのだよ、また一人になることが。お前まで傍に居なくなることが耐えられなかった。駄目な父親でごめんな。お前の気持ちをもっと聞けば良かった。母さんが生きていれば……って思うよな。私が代わりに死ねば良かったよな。ごめんな」

その時プシューという音と共にバスが停車した。

「乗務員の交代をします。しばらくお待ちください。なお車内は危険ですので、立ち上がったり窓から手や顔を出したりしないようお願い致します」

回送車なのに再び無機質むきしつなアナウンスが流れる。

窓をそっと開ける。途端に病院内の雑多な音が耳に入ってきた。そのざわめきの中に麻衣の声も混じって聞こえてくる。

「お父さん、死んじゃやだよ。私何も返せてないよ。何も伝えてないよ。お母さんが生きていれば、3人で一緒にオーストラリアで暮らせたのに……お母さんの夢だったでしょう? そのために留学したかったのに」

麻衣の意外な言葉に私は戸惑った。佳代の夢。

「老後は海外でのんびり海を見ながら暮らしたいわね」

ころころと笑う佳代の顔が蘇った。

麻衣に近付く女性医師の姿があった。頬には小さな傷があった。

一目で百合子だとわかった。

「木村君、……こんな形で再会するなんてね」
「父のお知合いですか?」
「ええ。彼と私は同級生なの。私の実家が彼の一家にひどい仕打ちをしてね……」
「え?」
「この傷、お父さんにつけられた傷なのよ」
ふふっと上品に笑う顔は昔のままだった。

「私ね、中学生の頃、あなたのお父さんが好きだったの。凛とした人でね。温厚で怒らない人だった。あの日、余程のことがあったのね。私は運悪く近くにいて、この傷を負った。事故だったの。それなのに……。目が覚めたら、謝りたいわ。そして、傷ものにした責任でも取ってもらおうかしら?」
ふふっ……今度はいたずらっぽく笑った。

「私も、父が目覚めたら言いたいことがたくさんあるんです。母が亡くなって寂しかった。辛かった。当たり所がなくて、何もかも父のせいにした。父は何も言わなかった。いつしか父との会話はなくなった。父が私のために仕事を変えて、慣れない家事をして、毎日不格好なお弁当を作ってくれて。私、まだ感謝の気持ちを伝えてない。謝ってもいない。このまま目が覚めなかったら、どうしよう……」

麻衣はワッと泣き出した。

そうか、そんな風に思ってくれていたのか。私が勇気をもって麻衣と向き合えばよかったのだな。最期まで私は駄目な父親だな。麻衣があんなに泣いているのに何もしてやれない。

回送バス……あぁそうか、これは『回想バス』だったのか。このままあの世まで連れて行くというわけか。

待てよ……今、ここで降車したらどうなるんだ?

座席から立ち上がり、扉へ向かう。途端に警告音が鳴り響く。
「危険ですからドアから離れてください。危険です」
警告アナウンスと麻衣の泣き声が大音量で鳴り響く。

「ええい、ままよ」
私はドアから飛び降りた。


気が付くと私は病室のベッドで寝ていた。ベッドにもたれかかる様にして麻衣が寝息を立てて寝ている。そっと頭を撫でてやる。
ドアが開き、担当医師が入ってきた。
しばし見つめ合う。
はにかむように互いに微笑んだ。


(約4000文字)


朗読しました📻


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