【短編小説】1月の話/12ヶ月小説
「もうすぐ年明けか……」
かじかんだ手に息を吹きかける。吐き出す白い靄は、その瞬間、幾分手を温めるが、周りの冷気が、先ほどよりむしろ手に冷たさを感じさせる。
古い祠の後ろにある、これまた古い蔵の扉を、綾香は体重をかけて押し開けた。ギギギっという鈍い音と同時にカビ臭さが鼻をつく。こんな寒空の下、こんな深夜に、こんな不気味な場所、誰も寄り付かない。
冷えた空気が、張り詰めた空間をつくり、この世に誰一人いないかのような静けさが綾香を包む。
高窓からわずかに差し込む月明かりが照らす冷えた床で、体操座りをして顔をうずめた。身体を出来るだけ小さく縮め、放熱を防ぐ。
破裂音が響いた。
ドドーン……パラパラパラ……
音と同時に歓声があがる。耳を澄ますと正月の定番曲「春の海」と、賑わう人の声が聞こえてきた。
綾香はゆっくりと頭を上げた。
「まぁた、こんなところでさぼっとる。巫女さんがこんなところに居ったらあかんやろ」
「翔太兄……?」
五歳年上の幼馴染の翔太が、呆れた顔をして佇んでいた。家が近所で親同士の付き合いも深い。
「一年で一番忙しい時に、神主の娘がこんなところで」
「……今、休憩中なの!」
「0時から神楽が始まるやろ? おまえが行かな始まらんやん?」
「ええの。お姉ちゃんおるし。神楽には出てへんのよ。踊りも忘れた。巫女もいっぱい居るから大丈夫。さぼってもバレへん」
綾香の家は由緒ある神社で、1月1日の0時から歳旦祭が執り行われる。地元では大きな祭りだ。12月31日から露店が立ち並び、人が多く訪れ、弾ける笑顔と笑い声が響き渡り、皆で新年を祝う。
「新年なんて、何がめでたいんよ……」
「……せやなー」
翔太はそっと綾香の横に腰を下ろした。
「こんな格好で居ったら、風邪ひくで」
そう言うと、真っ白な大判のショールを綾香に掛けた。
「新年なんか、大嫌いや。何もええことあらへん。大晦日も大嫌いや」
「そんなこと言うなよ。綾香の生まれた大事な日やんか」
「だって。家が神社やからって、祖父ちゃんも祖母ちゃんもお父さんもお母さんも『一年で一番忙しい日や』言うて私の誕生日なんて気にも掛けてくれへんやん。お姉ちゃんはいつも誕生日に祝ってもらえるのに」
「綾香やって、正月が明けて落ち着いたら、みんながお祝いしてくれてるやろ?」
「私は一度でいいから、その日にお祝いしてほしかったの!」
「せやなー」
翔太はいつも綾香を否定しない。
「『まだそんなこと言うてんのか。高2にもなって!』って何で言わへんの?」
「んー? せやなー」
「翔太兄は、いつも『せやなー、せやなー』ばっかり。他に言うことないん?」
「せやなぁー……あ。」
二人の目が合わさると、くくくっと互いに笑った。
「私なぁ、翔太兄と一緒に行きたい」
「……」
「なんでこんな時だけ『せやなー』って言ってくれへんのよ? ……あぁ、そっか。翔太兄は、お姉ちゃんのことが好きやもんね?」
綾香は翔太より一つ年上の、綺麗な姉を思い浮かべた。翔太は何も言わない。
「お姉ちゃん確かに綺麗やけどさ、私だって捨てたもんじゃないやろ? ほら見て? 大人になったやろ? いつまでも子どもやないで?」
綾香は必死で自分をアピールする。
「……せやなー。綾香もすっかりお姉さんになったなぁ」
その顔はどこか寂しそうだ。
「せやで……。もう翔太兄と同い年や……」
***
五年前ーー【翔太:高校2年生、綾香:小学6年生】
12月31日 23:00
「まぁた、綾香はこんなところでさぼっとる」
「翔太兄。私、もう踊らへん。巫女さんなんて嫌や。なんで自分の誕生日に仕事させられなあかんの! こんな家に生まれて来たなかった!」
「……せやなー。誕生日やもんなー。綾香姫は、大層ご立腹なんやな?」
「『ごりっぷく』って何よ!」
「怒ってるっていう意味や。せや。綾香姫のためにこちらを準備致しましたので、どうかお怒りをお納めください。お誕生日おめでとうございます」
翔太は御伽噺に出てくる王子のように片膝をついて、つやつやとした真っ赤なりんご飴を差し出した。
「毒リンゴではございませんから、安心してお召し上がりくださいませ」
綾香はプッと吹き出しそうになるのを我慢して、怒った口調で続けた。
「ワタクシはそんなもの、食べたくありません。誕生日にはケーキと決まっているでしょう?」
「えーー? せっかく買ってきたのに。ハイハイ、わかりましたよ。コンビニで買ってきますよ。少々お待ちくださいませ。綾香姫」
「ハイは一回でしょ!?」
「へーい」
そう言うと、翔太は走り去ってしまった。
「あ……」
呼び止めようとしたけれど、何となく引っ込みがつかなかった。
押し渡されたりんご飴が月明かりに照らされ、キラキラと光っているのを見つめながら、本当は嬉しかったのに素直に喜べない自分に嫌悪感を抱きつつも、自分のためにわざわざケーキを買いに行ってくれた翔太の気持ちを嬉しく感じていた。
翔太は、綾香の望みを何でも叶えてくれた。我儘に付き合ってくれた。翔太に嫌われたくないのに、どこまで自分のためにしてくれるのかを知りたくて、試すようなことをしてしまう。
***
四十分が経過した。
神社は小高い丘の上にあり、110段の石段を下りて道に出て、自転車で十分ぐらい走るとコンビニエンスストアがある。
「翔太兄、遅いな。もう歳旦祭始まる。もう行かな」
綾香は神事が行われる神楽に向かった。
綾香の出番だった一回目と三回目の舞が終わると時刻は午前2時を指していた。大役を終え、興奮が冷めると、疲れと眠気でぼんやりする。ふと周囲の違和感に気付いた。親族がざわついている。
例年バタバタとしている時間帯だが、何かがおかしい。ものすごく嫌な予感がした。
「お姉ちゃん? ……翔太兄、知らん?」
高校3年生の姉は、いつもより青白い顔をして、いつものようにいい香りがした。
「綾香……。あのね、翔太……事故に遭ったらしくて……。さっき翔太のおじさんとおばさんが病院に向かったみたいなの。でも、私達一家はこっちのことして……って」
後頭部を突然ハンマーで殴られたような衝撃が走った。一瞬にして、手の先から氷のように体が冷えていくのを感じた。
「翔太兄……、大丈夫だよね?」
「大丈夫に決まってるじゃない!」
いつもは大きな声を出さない姉の剣幕にドキリとする。
「ごめん……。私も動揺しちゃって。大丈夫だよ。おばさんたちから連絡が来るのを待とう?」
いつもの穏やかな姉に戻ると、青白い顔でにっこりと笑い、綾香の頭を撫でた。
姉は手伝いに残り、まだ小学生だった綾香は家に帰って休むよう促された。
普段は物音一つしない静かな家も、今日ばかりは布団に入っても、外から、正月を祝う人たちの賑わいが耳に届く。参拝客は次々とやって来て、止むことはない。外はお祝いムード一色なのに、綾香は布団に潜って、ただひたすらに震えていた。
「神様、どうかお願いします。翔太兄を助けて。お願い……お願いします。これからは我儘も言いません。神事にも真面目に参加します。神様そこにいるんでしょ? お願い。望みを叶えてーー」
夢なのか現実なのか、どれくらい時間が経ったのかもわからぬまま、空が明るくなっているのに気付き、布団をはねのけた。
隣の客間に、仮眠をとっている親戚のおじさんが見えた。この日は、親族が交代で仮眠をとり、歳旦祭を運営するのだ。
玄関の外を見やると、姉がぼんやりと佇んでいるのが見えた。
「……お姉ちゃん?」
昨日よりもさらに青白い顔でこちらに振り返った。
「綾香……。翔太が……翔太がねーー……」
そう言うと泣き崩れた。
その後の記憶はない。
自分は一緒に泣いたのだろうか。
立っていたのか?
座り込んでいたのか?
叫んでいたのか?
ただ視界が徐々にぼやける中……『お姉ちゃんは泣いている顔も綺麗だな……』
そう思った。
翔太は、コンビニエンスストアに向かう途中、飲酒運転をしていた自動車に撥ねられたとのことだった。
お通夜もお葬式も、どうやったのか覚えていない。
ただ、「なぜ大晦日のあんな時間にコンビニになんて行ったのか?」というみんなの疑問の声ばかりが耳に付いた。
綾香はどうしてもその理由を言えなかった。
お喋りが好きだった綾香は、その日から人と喋らなくなった。
***
「……翔太兄、ごめんね……。私がケーキが欲しいって言ったばっかりに……」
「綾香のせいやないやろ? 買いに行くって決めたんは俺やし。悪いんは酒飲んで運転してたおっさんやろ。赤信号無視してツッコんできやがって! 腹立つわ! な? やから、綾香は自分を責めんでええ。せやないと俺、心配で成仏できひんやん」
「やから、一緒に連れてってよ。今ならちょうど同い年やん」
「……せやなー。でもなー……俺、あっちにガールフレンド出来てしもてん。めちゃくちゃ美女やで?」
ぐししっといたずらっぽく笑う。
「何なん……それ。私はずーっと片思いしとけって言うん?」
「せやなー。綾香は生きてるんやから、人生もっと楽しまな! 俺はあっちで楽しむから! な?!」
そう言うと、綾香の後頭部をポンポンと撫でた。
「じゃぁ、なんで今日現れたん? 私を迎えに来たんと違うん?」
「なんでやろなー。毎年ここで一人で年越ししてる綾香を見てたら、会いたなってん。綾香と同い年の今年がええんちゃう? って。神様に一回でいいから会わせくれってお願いしてん」
「神様なんて居らへんわ! あの日あんなにお願いしたのに、翔太兄のこと助けてくれへんかった! 神様なんて! 居らん!」
「まぁた、我儘姫がご立腹や。何をご所望ですか?
……でもなぁ……もう俺は何もしてやれへんねん。ごめんな……」
悲しそうな翔太の顔を見ていたら、涙がとめどなく溢れてきた。
翔太は泣いている綾香を優しく撫でながら、落ち着くのを待った。
「なぁ綾香? 俺って、いつもいつも、いっっっつも、おまえの望み叶えて来てやったよな?」
鼻水をすすりながら、綾香は翔太の方へ顔を向ける。
「最後にさ、一個ぐらい俺の望み叶えてくれへんかな?」
綾香はしばらく考えて、こくんと頷いた。
「ほな、目瞑って」
綾香は素直に目を瞑る。
「絶対に目、開けたらあかんで」
綾香はこくんと頷き、薄目を開けて様子を伺った。翔太が咳ばらいをして、もじもじしているのが見えた。よしっと自分の頬を叩き気合を入れているのを見ると、おかしくなって肩が震えた。
「あ! ズルしてるやろ! あかんて! ハズイやんか」
「……今からハズイことするん?」
「もうええわー」
「ごめんて。今度はちゃんと目瞑るから」
目を閉じた瞬間、頬に翔太の唇が当たる感触があった。
「え? ……口やないんや?」
「おまえなぁー。ほな、元気でな。綾香は幸せになるんや。わかったか? これが俺の最初で最後の望みや」
「いやや。翔太兄! 行かんとってーー!」
***
「おいっ! おいっ! 大丈夫か?」
「……翔太兄?」
「何寝ぼけとんねん。俺や。雄哉や」
「何だ……あんたか」
綾香と同い年の、翔太の弟の雄哉が、心配そうに綾香をのぞき込んでいた。
「こんな所で寝てたら、凍死すんぞ! アホかおまえは!」
白いショールはないのに、不思議なことに身体はとても暖かかった。
五年前は、綾香よりも小さくてガキ臭かった雄哉が、今や翔太の生き写しのようになっている。それがどうにも気に入らない。
「あんたよりアホちゃうわ」
「はよ神楽行くぞ。お前も居らんし、あっちはてんてこ舞いや」
「今日は翔太兄の命日よ。よく祝う気になるよね?」
「祝う気になるかっ!……でもみんなにとっては、今日はめでたい日なんや。俺らが働かなあかんやろ?」
「一丁前なこと言って。あんたはただの手伝いやろ」
「今更、何言うとんねん。ずっとこの地に暮らして、この神社と共に生きてきたんや。俺な、神職につくで。大学も決めた。おじさんの後は俺が継いだる」
「え? ……ふーん、あっそ」
そっけなく言いながら、雄哉がそんな未来を描いていることに衝撃を受けていた。
「しゃーなし、おまえを嫁にもらったるわ」
「は? 何言ってんの? あんたなんか……」
「あんたなんか、なんや?」
「あんたなんか……本当のこと知ったら私のこと恨むと思う」
「本当のこと?」
「……そう。あの日……何で翔太兄が死ななあかんかったんか。……何であの日コンビニなんか行ったんか。行かへんかったら死なんかった……」
綾香はどうしても言えなかった。怖かった。
「あぁ。あの日、お前の誕生日ケーキ買いに行ったんやろ?」
「っ……!!」
あまりに唐突に、簡単に雄哉が言うので、次の言葉が出てこなかった。
「あの日、兄ちゃんとすれ違って聞いてた」
「え? ……おばさんたちも知ってるん?」
「知ってるかもな。何も言わへんけど。兄ちゃん、死に際に『今日は死なれへん。あいつの誕生日やから』って。『誰も責めんとってくれ。今日を嫌な日にせんとってくれ』って、必死で訴えてたらしい。俺が病院に着いた頃には、虫の息で、話はできんかってんけど」
綾香はへたへたとその場に座り込んだ。
「兄ちゃんは、おまえが死んだように生きることなんて望んでないぞ。……もう五年やぞ? みんなに腫物扱いされて、おまえはそれでええんか? ええ加減、立ち直りや。気張りや!」
雄哉の顔が逞しく見えた。
「翔太兄と同じ顔で、そんなん言わんといてよ」
ポツリと呟く。
遠くで祭りの喧騒が聞こえてくる。
綾香は静かに立ち上がった。
了
(5400字)
朗読しました✨
読むのが苦手な方はこちらからどうぞ💕
#掌編小説
#12ヶ月小説
#短編小説
#1月の話
#12話の短編集