悪意なきは罪
え?と思うかもしれません。私も最初そう思いました。
なんでも、悪気がなくてやっていることの方が(それで相手が嫌だと思っている)罪が深いのだそうです。なぜなら、罪の意識がないからだそうです。自覚がない、とも言えます。
悪気があったり、故意にやっている場合は、もちろん褒められることではありませんが、改善の余地があり、反省する方向にもっていくことも可能で、そういう人の方が罪の重さを実感し、行動を改め心からの善行をする人もいるそうで。
じゃあこどもは?って思いますよね。こどもの場合は、まだ人間としての歴史が浅いですよね?たかだか数年人間をはじめたばかりでやっと言葉も通じるようになり、世の中の状況がわかりはじめている・・・しかし、社会の仕組みや人間関係はわからない
だから、悪い言葉や態度に表してしまったり、だめと言われればやりたくなるようないたずら心が生まれたり。
でも、これはなぜいけないのか?やられた相手はどう思うか、などを教えるのが子供を取り巻く大人の役目だと思います。親に限りません。こどもと接する機会のある大人はすべて、そうした義務があると思います。人間の先輩として、こどもを教え導かねば、と思います。
もちろん大人だっていつも100点満点じゃありません。でも、こどもと一緒に考えたり、教えてもらうこともあります。ああ、そうなんだ・・・そうか。より、自分の思考を深くする助けをくれたりするのも子供です。
ということで、こどもの行い・言動は罪に当たらず、刑罰にも処されませんよね。sinにもguiltyにも当たらない。
※sinは宗教上、倫理上の罪、業。guiltyは法律上の罪。
一方、大人が「知らなかったから」とか「なんで悪いの?」と人としての責任を放棄するのは、非常に良ろしくなく、自分が発したことばで相手が傷ついてしまった、もちろん予想していなかったかもしれない。しかしながら、普段から相手を慮ろうとしているひとならば、自分の失敗にも気が付き改めようとするはずです。
しかしながら、自分は正しく間違っていない。傷ついている人、嫌な思いをいているのはその人の勝手だ、などという考えを持つのであれば、傲慢極まりない。この考えを持っている限り、悔い改めようという思考発想にはならないからです。
人間は間違う生き物です。まちがいながら、転んでけがして立って、そして深みと大きさが増すのだと、私は思っています。反省もしない、慮りもしない人は、最終的に孤独になるでしょう。孤独でも構わないさ、という人もいるかもしれませんが、困ったときに誰からも助けの手を差し伸べてもらえないのは、つらい人生じゃないかなと思います。
この間ある小学2年生の女子が、嫌なことばかりする男子に言ったそうです。
「そんなことしてると結婚できないよ!」すると男子は
「別に結婚なんかしなくていーもん」女の子は畳みかけます。
「そんなこと言ってると寂しい人生を送るよ」←隠れて大爆笑していました。
普段から人を助け助けられ感謝して生きている人は、思いがけず助けの手を差し伸べられ、ああよかった。と大けがをする前に救助援助してもらえるもんだなあと、俯瞰から見渡していつも思うことです。
ここ最近、小さなゴタゴタがありましたが、社会がイライラしているため仕方ない部分もありますが、これも運気の膿出しだと思いました。
引っ越しをするときに大掃除になり、うわあ・・・こんなに埃があったのね。ゴミもでるし、いらないものも整理するよい機会だなあ。と、前向きに、ああ、そうか、新しい良い運を受け入れるための厄払いなんだなあ、と思うことにしています。
そうです。ごちゃごちゃは、新しいラッキーという運の住人さんを受け入れるための儀式じゃ!
と、また、コメディドラマをみながらお腹を抱え大声で笑い、邪気は~外!節分じゃなくてもずっと続けていきたいと思います。
邪さん、どっかいって!!
サポートしていただきましたら、きっといいことがあるでしょう!少なくとも私から多大なる感謝を持って、心より敬意を表します。ありがとうございます!!