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「会話の楽しみ」―大野盛雄『フィールドワークの思想』(1)

下の記事を書いたときに、大野盛雄『フィールドワークの思想』を読んで「今いるU国の社会を捉え直すことを自分の課題にしてみよう」と決めました。今回はその第1回目です。本当に少しずつ読んでいきますし、取り上げる順序もばらばらになると思いますがどうぞご容赦ください。

第5章「砂漠の農村に暮らして」第1節「彼らの言葉を話す」の最初の項「会話の楽しみ」(pp. 135-137)を見てみます。

日本人、特に研究者の場合に会話を、自分の調査を進めるための単なる道具として考えることが多いと筆者は指摘します。調査ということでなくても、用件だけ話して無駄話はしないような傾向が日本人にはあるように思えます。

会話には二つの側面が考えられる。一つは手段的側面で、私たちの調査についていえば質問と答えということである。……もう一つの側面は会話そのものが目的であるということである。……農民との人間的な交流そのものが、極端にいえば調査の目的だともいえる。
それは当然のことでいまさらこと新しくいうまでもないことといわれるかもしれないが、私たち日本人、とくに研究者の場合、言葉というものをどう考え、どのような態度で話すかということになると、さきに述べた手段的側面としてかたづけられてしまうことが圧倒的に多いのではないだろうか。

しかし筆者は「会話そのもの……農民との人間的な交流そのものが、極端にいえば調査の目的」と言います。このことは、筆者の特徴的な研究手法だというだけでなく、イランの農民たちの会話に対する態度も関係しています。

……会話を円滑に運ぶことについての積極性については明らかに日本の雰囲気と違う。……階級の上下、教養の有無によって変わるところがない。……会話をすることによってそこに人間同士の共存、かかわりを認め合うという言外の約束事があるように思える。

社会を形成、維持するときに、会話をすることがイランの社会では大きな意味を持っているようです。このことは私のいるU国にも通じるように思います。ここの人たちはどんなに忙しくても人との会話をおざなりにせず、ある程度の時間を取ります。挨拶も日本のように「やあ」とか会釈だけで済むことは少なく、きちんと握手して、相手の健康や家族のことを尋ね、一通りの会話を済ましてからしか別れません。

筆者も書いているように、他に娯楽がないから娯楽として会話を楽しんでいるというような見方は一面的で、ここの社会では会話が必要不可欠な要素であると言えるでしょう。筆者は「会話をするために暮らしているといってもよいかもしれない」とまで書いています。こういう社会では、会話をすること、そして会話に十分な時間をかけることが必要で、異国人であってもそういう社会であることを理解して、会話を通して人々との関係を作っていかないといけないでしょう。

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