8月の自選俳句。
どこまでも 青田のごとく 朝の凪
紫蘇の香の 立ち上りたる 朝の水
子犬鳴く 別荘族の 夏の朝
夏になると別荘の住民たちがやってくる。犬を連れて来る家族もいるのだろう。
いつもは聞かない子犬の声が朝に外へ出ると聞こえてくる。
深蒸し茶 腹に落として 夏の陣
自転車の 音弓なりに 盆の僧
お盆の中日の午後にはいつも念仏をあげるために来ることになっている。
「そろそろ来るころだな。」
時計を気にしながらそう思っていると通りから自転車の入って来る音がして、うちの前で止まる。
やがて玄関の戸が開く。
チャーハンに 刻み紫蘇梅 夏料理
瓜トマト 梨の千切り 夏サラダ
逃げて行く 浮き輪 追う 追う 幼子は
一歩ずつ 海を上がりて 夏の暮れ
海水浴 みなからっぽになり シャワー待つ
一日 海に入っていると からだはばらばらになり心地よい疲労感に包まれる。
こころに着いていた余分な物も洗い流されて今はもう何も考えられない。
みんなからだもこころもカラッポとなって海から帰って来るのだ。
水槽の 玉石洗う 大夕焼け
向かいにある旅館では若主人が定期的に魚貝や海老などを入れて客に見せている水槽を掃除している。
透明感を保つには頻繁に掃除をしなければならないのだと言う。
旅館の若主人は働き者である。夕日を受けて玉石を洗うガラガラと言う音が通りを挟んで聞こえて来る。
女子ソフトの 声 空高く 夏の宿
夕方、隣の民宿の庭で泊り客の若い女性が何人かでソフトボールの真似事をやっていた。
経験が有るのか、はしゃいだ中にも良く徹る声が日暮れの空に響いていた。
上げ花火 やがて泣き止む 赤子かな
大花火 人々の息 闇に聞く
手花火の 燃え尽きぬまま 波の音
寅さんに 打ち明け話し 遠花火
今年の花火は訪ねてくる人もなく、一人で二階の窓から花火を眺めていた。
一人で見る花火はこれはこれでしみじみしたものがある。
ふと寅さんの映画(男はつらいよ)の一場面が浮かんでくる。
寅さんと人生に迷う若い女性が遠くの花火を見上げながら、
「あのね、寅さん、わたし 、、、、 」と
なかなか人には話せない打ち明け話があったりするのだ。
ヒマワリの 実る頃には 水請わず
ヒマワリはたいへん水の好きな植物である。
成長の過程では朝に水をやってもすぐに鉢の土が乾いてしまうほどだ。
それが花が種となって実る頃には水を飲まなくなるから不思議だ。
人間は死に近づくと少しずつ水を取らなくなるらしいがヒマワリも同じことなのかと考えたりする。
一夏を ポストに投ず テープ図書
この八月も月末ともなるとめっきり人通りも少なくなる。
人中を避けてポストに行くのを先延ばしにしていた私は、意を決して久しぶりにホテルの傍に有る小さなポストへ点字図書館から借りていた山ほどの録音図書を返しに出かけた。
注)視覚障がい者にとって読書といえば 昔は点字図書を読むか、カセットテープに録音された図書を聞くかであった。
現在では録音図書のスタイルも変化して、CDによる録音図書が一般的である。
それも郵送ではなくネットを通じてダウンロードする時代となっている。
通りには 潮騒ばかり 夏の月
二階の窓から夜ふけの海岸通りを覗いてみることがある。
昼間は海水浴のお客がにぎやかに行き来していた通りだが、夜ふけともなると、それが平日ともなれば人っ子一人通らない静かな夜である。潮騒ばかりが聞こえている。
潮騒は建物に反射して海とは反対の方向からも聞こえている。
まるで建物の裏にも暗い海があるかのように。
虫の音のまたたいており 夜の海
海に間近い草はらにも秋の乾いた風が吹き始めると 虫の音がそこここで聞こえてくる。
夜の波の音に負けじと、高く涼やかなその声はどこか電子的な響きにも聞こえる。
その虫の音が私にはまるで闇の中の光の点滅のように聞こえる。
コオロギや 暖かき雨 煙る夜に
星祭り ジョバンニ一人 草の駅
星祭りとは七夕のこと。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」では病気のお母さんに飲ませる牛乳を買いに出かけた主人公のジョバンニは小高い草原(くさはら)から思いがけず銀河鉄道の乗客となる。
そこでは川におぼれた子供を助けようとしておぼれ死んた親友のカンパネルラや氷山の衝突で沈没してしまった外国の旅客船に乗っていた子供たちや引率の先生などと旅を共にするのだが、彼らはみなあの世に向かう乗客。
ジョバンニだけが一人再びこの世にもとってくる。気が付くとジョバンニは元の小高い丘の草原に横たわっていた。