見出し画像

生活保護日誌.91

UnsplashGabriel Coxが撮影した写真を使用してます。Thank you! Gabriel. Have a nice day!!)

おはようございます。二足の草鞋です。

朝4時に起きて座禅を組んで、うがいして、歯磨きして、水飲んで、顔を洗って、着替えて、風呂入ってついでに水シャワー浴びて、布団を畳んで(今日は何となく体がだるいから布団を畳むのをさぼってそのまんま)、

朝ご飯を食べて、と言っても最近はじゃがいもなりさつまいもなり芋ばかり食べています。行きつけの米屋さんの米の入荷が10月からなので、世知辛い世の中ですがしぶしぶ耐える毎日です。小麦粉を食べたらとかパスタとかパンとか食べたらいいじゃないかと自分でも思うのですが、やはり、日本人なら米を食べたいというかその土地ならではの食べ物を口にしないと、人間も生き物なんでお猿さんなんでというか僕自身まあ理性はありますけど本能が強いというか、まあ、感覚過敏(刺激易性)やら専門的なことは分からないのですけれど言い訳というか社会的に「これ以上僕は今の世の中についていけません。申し訳ないのですが、神経発達症(発達障害、筆者20歳で診断『広汎性発達障害』)を名乗らせていただきますのでそげな無理はできません、バリア!的な感じで普通の人なら(普通の人なんていやしませんけど)常識を持って過ごしている人なら(常識ってなんやねん。といっても僕は自ら人に乱暴を加えたりは致しません。臭い、汚い、気持ちが悪いの3K標準装備でありますが、それでも生きていますしそういった清潔感を保つにもお金がかかるのは仕方がないのですが事実(だと僕は思っている)ですし他人にどう見られているかを気にするような社会的地位は持ち合わせていませんので、自由にそこら辺ほっつき歩いています。葉っぱ隊です。

「立ってるだけで気持ちいい」僕からすると、日々の何気ない立つ、歩く、座る、しゃべる(独り言、歌)による基本的な体の使い方を自分なりに、心地よく動かしきるためにはやはり、その地ならではの食べ物は外せないかなと思っています。といっても「思っている」だけですからね。それが絶対正しいわけじゃないですしこの前なんてモスバーガーのてりやきバーガーオニポテセット(+メロンソーダ)とモスチキンを食べました。その時雨が降っていて僕は、晴れている時は日傘を差すのに、雨が降っている時は雨合羽を着て街をほっつき歩くあまのじゃく二足の草鞋でして、ついこの間民芸品店で草鞋を見つけたので本格的に私生活でも「二足の草鞋」を履いてみたいなあと思とりますが高いです。7,000円しましたからね。でも歩いたり一瞬のしゅばッとした動きは機動性は、やはり靴より軽くて涼しくて素足にも似た草鞋の方が、理にかなっているのかなと思ってます。

そのうち草鞋が買えたらいいなあと歩きながら草鞋より優先順位の高い食材を求めて歩き切る次第であります。

早く来週が待ち遠しいです。芋を煮るためのお湯をわかすカセットガスがゴンゴン減って、でもケチらずにしっかりと芋を煮たらホクホクのさつまいもはお腹にすぐたまる感じで、でも甘いものも食べたいなあとさつまいもも甘いですが小豆やら砂糖由来の甘さを口にしたい気分もあるから近所の和菓子屋さんに行ってついこの間おはぎを買いました。

いらっしゃいませ。何になさいますか。

えーっと、おはぎありますか。

ありますよ。つぶあん、こしあん、きなこ、ごまの4種類ございますがどれにしましょう。

そうですね、うーん、そうですね、つぶあ、じゃあ4種類一つずつください。

あいよ、ありがとうね。

こちらこそ、ありがとうございます。

チン、会計。

てな感じでおはぎを4つ買って帰ってからお茶を淹れて午後のひと時を満喫して眠たくなって午睡して、午睡といっても20分そこらの短い時間で寝過ぎたら夜眠れなくなりますがといっても眠れない日はとことん眠れないのでどんなに気を付けても仕方がないと割り切って、僕は夜7時から朝4時の9時間睡眠を基本としていますので眠れない日は9時間の寝ながらの瞑想、ですね。

頭が起きていても、身体はその場に静止して休ませる。

僕はその場に横たえられるだけでホッとするんです。

日ごろ、様々な刺激というか音というか人の声(これも端的に言えば音なんですけど)が僕の意思関係なく降り注いできて、まあ「神経質だなあ」と言われたらそれまでですけれどその性格というか感受性の度合いで今まで生きてきて「変わりなさい」言われたこともありますがそれでも変わらず今の自分がここにいるのだとしたら、使い古された言葉ですが「苦手を克服するより得意を伸ばす」の方がいいかなあと思いますし、かといって僕が苦手とすることが得意な人にとっては僕が僕らしく生きていることに対してというか大人になったらその人自身に理がなければ何も言わずに距離を置くということができますから、別に「自分を大切にしてくれない」人(SNSでこういったフレーズをよく目にします)やら自分が苦手とする人と関わらなければいいという見方もできますけど、まだまだ短い人生経験ですが(といってもどんどん時の経過が早くなってあっという間に年を取っていくのですが。でもどこかで「老うことは生きること」と書いていたのを見たことがあるので、生きたければまあ、仕方ないよな)、自分がどうしても苦手で苦手ででも恥ずかしくても「これだけはやりたい」、いや「これだけはやりたい」と頭の中で考えつつも無意識に体が動いて成しえた「その場限りの苦手との向き合いと意図せぬ展開」によって充足感を味わえたことが何時もあったので、「苦手だから全く近寄らない」ということは無しにしたい。

でもどうしてもいやな時は問答無用で距離を取ります。自分の命の方が大切ですし、もうこれは言葉じゃないです。言葉で考える頭で考えるには遅すぎる。それよりも体から立ち昇った感覚によって判断する。一人になってから言葉を使って落ち着いて頭で考えられたら、なんてそんな悠長に事が進んだら人生苦労しませんわな。「人生苦労しませんわな」ってなに仙人みたいなこと言ってんねんひよっこが。サーセン。

鼻くそをほじくる時もそうです。指で鼻をグングリグリルとほじくって、ほじくった鼻くそを食べるのでもなくそこら辺の床にくっつけることもなくゆっくりと傍らに置いてあるティッシュ、たとえ鼻くそ1個だけでもティッシュをサッと抜き取ってから丁寧に鼻くそを包み込んで、クシャついたティッシュをそこら辺に投げる。

投げたティッシュは発火材のごとく、掃除をする時に便利なんです。僕は極端な性格なのである時はめちゃくちゃ部屋を綺麗にしたと思いきや、数日片付けることなく散らかった部屋で過ごすことがあります。その時に、何か変化を起こそうかなと思ったらごみ袋にまずそのクシャついたティッシュを一つ摘まみ入れて、待機。本を読んだり座禅組んだり顔洗ったり欠伸(あくび)したりしてまた何の気なしに周囲を見渡すとリンゴをむいた後のリンゴの皮が床に落ちている、一摘まみ、待機。そしたら気が付いたら部屋が片付いているあら不思議、なんていうことになって前は「片付けなきゃ片付けなきゃ」と脅迫観念に襲われたり、毎日きれいにしなきゃと(毎日きれいにすることは大切なことです)事あるごとに床を箒(ほうき)で掃いたり洗濯をしていましたが今となってりゃその日の気分に合わせて。

まあこれも独り身の特権みたいなものですがね。

橋本治(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』https://ja.wikipedia.org/wiki/橋本治)さんの「橋本治という立ち止まり方」という本の中に

『「悲観的な未来」は、「受け入れたくない現実」を受け入れた時、「悲観的な未来」から「切り開かざるをえない現実」へと変わる。』

と書いていて、まあ本にある通りのことが常に正しいわけじゃなくて考え方の一つとして、その時の心情を支える対処療法的な薬の処方として胸に抱き止めるものとして扱うっていう感じですけど、独り身なり変人なり生活保護受給者で精神保健福祉手帳を取得した神経発達症の診断を受けた立場の男の成れの果てがたとえ後ろ暗いものだとしても、それでも、僕は、引きこもっていた時の、母親からのご飯を待つだけの生活、働いていない身分で家族に食わせてもらっていることの罪悪感にさいなまれながら息を殺して部屋から出ない生活。部屋に出たとしても近所に出れば顔を知られているので田舎と言っても人が住んでいる所は密集してますし田舎だからって自然があろうとも誰かの所有している山林だったり漁業権持たなければ海へ狩り出て猟をすることもできない。

あの閉塞に満たされた場所でずっとずーっと過ごすよりマシだ。もちろん、完全に言い切ることはできない。両親のそばに居れば「いつかは親は先に死ぬ」のだから、一人暮らししているより両親との生ある時間を過ごすことができるという面では沢山の時間を共有することができますし(たとえそれが憎しみに近い感情も含まれていたとしても)そのことが親孝行と見て取れる。今一人暮らしをしている状況は、言ってみれば、両親や兄弟がいない天涯孤独な世界。電話一本でラインのメッセージでお互い連絡しあえるとしてもそれは実体を持たないのだから、死者との対話のように思える時がある。

たとえ声が聞けたとしても脳内のアーカイブから家族の姿を引っ張り出して声と記憶をつなぎ合わせただけで一人だけの空間にいることには変わりないのだから僕はいったい何をしているのだろう、そう思う時もある。

両親には生きる知恵なり彼彼女の生き方から学び、生きながらえさせてもらった時間の積み重ねもある。

今は生活保護を受給している。働くこと、誰かに認められること、学校でいい成績を取ること、異性によく見られたいと思うこと、運動神経を発達させること、体を鍛えてたくましく生きることetc。

まあ考えすぎなのだが、「生きる」だけならそんなにお金は要らないしでもお金があればパソコンも欲しいしいい部屋にだって住みたいしでも今まで生きてこられたし食べ物は美味しいし「もっと美味しい食べ物があるよ」と世の美味の存在を知っても、味の素だったり油だったりうま味を足せば舌やら脳をだまして何でも美味しくなることは(何でもってこともないが)知ってしまっているから、っまあ料理をしたり洗濯したり掃除したりの家事一切合切は自分なりに出来ている感じで

「これをしたら幸せだ」

というものが世間とか常識とか社会的地位とか無縁の生活、いわゆる世捨て人の人生を歩んでいる今の僕からしたらピンと来ないことであって。

でも、誰かが言っていたけど

「幸せというのはそれを自覚していない時間そのもののことをいう」

と。だから、今の僕はもちろん気が沈むこともあって撃鉄込めて動かなきゃいけないというか動かされざるをえない日もあるけれど、大分涼しくなってこれから寒くなっていく時期(といっても今現在念のために冷房を入れたまんま。冷蔵庫に入ったぺんぎんみたいです)だから、なよっとしたクヨクヨしたどっちつかずで「あんた何言いたいねん。的射ん態度腹立つわ」言われたとしてもこちとら天気と体調連動しているような性格していて(まあこれも僕の物語だけど)暑さから急に涼しくなって体がセーブセーブしてるんよと言い訳させてくれるわけでもないから。

偏見やけどおしゃべりな人ってその場その場で言うこと忘れているんやろうから、というか一言一言重んじる性格だったらそげなおしゃべり出来やせんわなとか皮肉ってわけじゃないけど今の僕なら

「ごめんな、僕は少しずつ少しずつしゃべっていかんと自分の思ったこと話せへんねん。それが鬱陶しいんやったら僕はな、貴方としゃべりとうないし何も言うことないから、じゃあな、達者でな」

って距離を取る。言わなくてもおしゃべりに興じたい人は僕から離れていくと思うし僕は一人の時間が好きな人だから、それで多分、いいんだと思う。

だからこそ僕は場を見ることを大切にしてる。場を見る感性を育てているのだと今になってそう思いたい。

2020年、とある出来事がきっかけでもう社会的地位を追い求めることはやめにした。自分のことを武士に例えるのは昔気質(むかしかたぎ)過ぎて暑苦しいと思うけど、武士は刀を抜いたら最後、相手を殺(あや)めたら切腹せなあかん。たといその場で切腹せずとも死に場所を求めて「しかるべき報いを受ける」ことを念頭に置いていつ何時でも死んでいい、そういう気持ちで生きていたんじゃないかって、思う。

僕は2019年に剣を抜いてしまったから(まあ抽象的なことをのたまうけど詳しいことは僕の過去の記事を見てください)

前提というか僕がいたその場が歪んでいたというか誰かの無理によって支えられていた泥船にいて、過去に辛い目にあわされたからその報復としての気持ちを発散しようとして、でも、その報復をしたとしても全くきれいさっぱりな気持ちにならなくて罪悪感だけが残って。

今は少々、政治的な事についても興味関心を持っている。前提条件として政策やら税金を必要なところに充填して人々の暮らしをよくすることで理不尽に耐えなくても尊厳を持った暮らしをする、特権階級が自らの懐に税金を厚顔無恥に入れ込んで(僕は生活保護だから税金によって暮らしているけども、それでも使うお金はほぼ地域のお店なり働いている皆さんの給料として回っていると思うからアマゾンやらのネットショッピング使ってへんしましてはスーパーやチェーン店にお金を落とさず個人商店に行って買い物するよう心掛けています。有事の際は、便利さなんて通用せん。流通止まったらアウト。地域に根差した個人商店の方がまだましです)、入れ込むくらいなら働いている人の給料を上げて経済回して、働けない人には(もちろん働けない立場になっても働ける場があったらそれでええ)働けなくても暮らせるお金を無条件で支給する、一人で暮らしても足が出るくらいのお金なり共同体なり生涯学習環境なりを提供する、労働がゴールではなくて一つの手段である、労働以外でも電通やらテレビ文化(ごめんなさいね。僕のこれっぽっちの政治やら世の中の仕組みやらから出た陰謀論的な根拠もない突拍子のない発言やから。現場で働いている人は偉いんやで。あほんだら何様や)が普及させた「こうでありなさい」というのが何となくなんとなーく今の時代に賞味期限とっくに切れているのに、まあいつの時代においても古臭くて賞味期限とっくに切れているような発酵しきった考えというのが一番人にとってヒトにとって生き物にとって大切だと思う(例えば畑で自分で野菜やら畜産やらで飯食えるノウハウ持っていればどこに行っても食うに困らん)。

利権絡んで富む者がどんどん懐に豊かさを詰め込むものだから、一部の勝者の下には死屍累々多くの犠牲者がいる。

本当なら、働くのであればしっかりとした働き口もある、その場に居るだけでもいい、その場に居るだけでじっくりと教育するから手厚い福利厚生がデフォルト時間をかけてゆっくり人を育てられるほどの経済的な余裕が国全体社会全体にあれば給料もちゃんと出るしコミュニケーション能力なぞなくても(メディアで言っているコミュニケーション能力なんてくそくらえ。んなもん庶民が劣化版のバラエティー番組を内輪で繰り広げてるだけやないか。と言ってもその人たちはその人たちで大変やと思う。自分が非常識的な人間浮いている人間思われたらつまはじきにされる。だからたとえ自分に違和感があったとしても自分の身分を追われないように他人の上げ足を取ったり鬼の首取ったように、いいや、僕の歪んだ価値観べらべら言っても仕方ない。優しい人もいる。でも優しい人が本当に優しいんやろうか。その場で優しい言葉を言っても一緒にいてくれやしない人、たとえ優しくなくても暴力をふるっても「一緒にいる」ということを続けてくれる人の方がある意味で優しい人で、もちろん「優しい言葉だけを言ってもっともらしい言葉を言うだけの人」ってのも当てにならんのも分かっているしその人もろくでもない奴だとも思う。でも気持ちを込めて恥ずかしさやら体の震えを通して「誰かのためにささやいた言葉」、断定口調やら社会的な立場をまみえて世間から外れているから是正するとか道徳を説くとかをせず相手に考えさせる余地を残させるぶっきらぼうで分かりにくい単純な一言、その立ち振る舞いじゃ、そうやな、だめなんやろうなあ。僕自身の言葉が正しいわけでもなく「正しいんや」と思いたいことも0とは言わへんけど、本当に優しいのは、本当に残酷なことなのかもしれん。「自分で考えてください」ときっかけを与えるしかできないたとえ誰かが優しい言葉を待ってくれてたとえその場で気を遣ってその人の都合のいい言葉を言ってその場が丸く収まっても、生きていれば明日が来るから、その日はいつか過去になるから、そしたら立場でしか物を判断できなくなる。役割としてでしかその人と関われなくなる。そうしたら、今度は自分が自分の体から立ち昇る「本当に言いたいこと」が言えなくなる。自分に嘘をつき始めたら純粋に体から溢れた思いの溢れた言葉を呟けなくなって、そしたら誰かに対して都合の良い言葉を言ってたとえその人が喜んでくれたとしても、その人の喜びってなんやろ。僕はこんなに苦しくなっているのにその人、僕のこと見てへんのちゃう、僕の言葉だけ見てるとちゃう。そう思うと、本当はその人が考えて(僕が他人に道理を説くほど成熟した人間ちゃうけども成熟したような言葉をのたまいたくなるような未成熟な人間だということを知ってもらいたい気持ちもあるから)、その人なりの生き方をして世間やら常識やら社会的地位やらに囚われない上位概念としての「自分」の世界を広げていけば、得も言われぬ大地に根差した安心感、安心感はずーっとではないけれど不安定も含めて人生、不安定だからこそ安心してささやかな安定の上で生きていられる。ある意味僕は安定した時が一番怖い。何か良からぬことが先々に起きるんじゃないかって。だからこそ落ち込んだ時を基準にしてたとえ喜びたくなっても顔には出さずいつも通りに過ごしている。きれいごというと、喜びの下には死屍累々落ち込んだ、不幸な顔がいるから。

国がしっかりしていれば、というかお金によらずテレビ文化による偏った価値観の擦り込みやら社会がきゅうきゅうするから人が他人に寄り添う余裕もなしにいがみ合うというか身内だけで身を固めるだけというか、宗教的に言うと昔の人はどうとか分からへんけど「お天道様が見てるから」で通用しとった時代があったとどこかの本で見たことある。

お天道様が見てるから、太陽は存在するものだけどその太陽に対してそれぞれ人が思い思いの願いを託して傍らに置いて、自然の恵み、人間の肉体は自然でできている、だから、人間というのは意識もへったくれもなく「自分」という欧米からの借り物の価値観もなく、でもどこかの本で見たけど日本人は「自分」「お前さん」「手前」など1人称を相手に向けて発する、言葉おける誰かとか自分とかみんな共通を結ぶからあってもなくても一緒、だから言葉なしでも通じていた昔の日本人は通じていた、こんな「昔は~」ばかり褒めたたえるつもりはない、今更「神様のために人身御供(ひとみごくう)を」なんてことせやせんしその人の人権やら尊厳やらどないすんじゃいってことになるから「昔は~」って極端になりすぎたら物騒になるからそれもきっぱり言えへんしきっぱり言えへんからこそ欧米さんキリスト教圏の一神教の文化というか言葉を使って境界線を引いてやり過ぎを抑止するっていうのもある。

何が言いたかったんやろうか。自分でもよく分からんよ。

自分の体は自然からの借り物やと思ったらなんか頭がおかしくなる。いや、「頭がおかしいように見られる」こととか「頭がおかしい」こととか他人から見られてどう思うもあるけど僕は日々ダイスを回してあっちに行ってこっちに行って座禅組んだらブッタGPT起動して無意識というか直感に赴いてまあーお猿さんのように本能的に動いてるけども、だからといって問答無用に女性にスキンシップするとかせえへんしスキンシップがゴールの口説き文句とかいう前に人に近付けへん。銅像の裸体像を見るだけや。ほんま、街で鉄の色した男女が立っとん。どういう神経してんねんこの町は、てな。まあ情操教育の一環としてやと思うけど、チラ見はさせてもらうわ。

疲れた。結局何を言いたかったのか分からんかったけど、意味を越えたその先に、自分がこうして座して意味のようなものを書き止めようとした体の動きなり体験を通じて何かに繋がったらなあと、思うよ。

最近金遣いが荒いねん。といっても食費だったり生活用品しかつこうてへんから、「物価上がってんのに保護費上げてほしいわ」とは思うけど、僕は、黙って行動によって自分にできることによって現実を変えていきたいから、というか行動するならしゃべる必要あらへんししゃべるとその場で気が落ち着くから行動する気がなくなる。

外山滋比古(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』https://ja.wikipedia.org/wiki/外山滋比古)さんの「傷のあるリンゴ」という本で

「世のならわしがどうであれ、喜怒哀楽を人に知られたり、人に向かって見せるのは、愚かなことで、貴重な心的エネルギーを捨てていることになる。慶弔いずれを問わず、いっさい他人にかかわらせないで、すべての思いは内向させる。そうして精神の内圧を上げたら、目指す仕事に向けて発動させるのが賢明だということになる。うれしくても、悲しくても、人に気取られないように胸におさめて、押さえておけば内燃で大きな力が出る。そうしてエンジンを動かし、仕事をこなすのが知恵であろう。感情は閉鎖されると大きな力を生む。」

もちろんこの引用の前と後ろにそれぞれ文章があってその文章を含めてこの言葉たちが生きるのだと思うしこれが正解でもない(このくだり、もううっとうしいですよね。そうなんです、僕はうっとうしい男なんです)

社会的地位を持たないからこその自由。でも、それは同時に孤独を意味します(何言うてんねんカッコつけやがって)。だからこそ、今はその場にとどまるだけで意味を要求されます。その意味にそぐわない行動をとれば奇異な目で見られたとえ見られなくても過去他者に傷つけられた(または自分が他者を傷つけた)経験から自意識過剰に「変に見られているのでは」と思う時もあります。極端に言えばその場の空気を吸うことにも理由がいる。

でも僕は歩きたい。自分の足で歩きたい。理由を持たなくても歩きたい、理由を提示されても「ただそこには道があるだけやないか」と歩きたい。それで変に見られようが勝手です。

でもいずれ社会的地位を持つのであればその自由は徐々に狭まることでしょうから、その時が来るまでは自分の直観に基づき、たまには地にひれ伏しむせび泣きたくなるような時もありますが口を開けたまま誰かが差し伸べる手を待つのはこりごりです。

ご飯を作ってくれるのを待つのではなく、所詮僕が作る料理っていうのは味噌汁くらい、切って、煮て、焼いて、野菜やら肉やら魚やらを料理というかただ口にしやすいように手を加えるだけ。作るのなんて味噌汁作ったら食べる(はい、次)リンゴむいてパクリ(はい、次)お茶淹れてフー(おしまい)的な感じで一つ一つのことを終わらせてから次に進む。一品も二品も調理できません。めんどくさい(まあ単にキッチンが狭いだけで料理をする気にならないだけですが)

自分で最低限度の調理をして食べる。自分の口に入れるものは自分で賄いたい。そういった心掛けだけです。どんなに豪勢な食べ物でも食べてしまえば、うんちです。どんなに料理スキルを磨こうが料理が上手い人なんて世の中にごまんといるし食べて生きながらえることと料理することは別だと、思いたい(独り身だから言えること。家庭を持ってたりパートナーがいたら料理しなければいけないと思うけど、いいやパートナーやらが自分でできたらええやないですか。土井善晴さんぶち込むぞワレ)

ちょっとアウトレイジ入っちゃいましたが、僕はまだ悟る過程というかお坊さんやらの宗教のプロフェッショナルというわけでもなく何かしらの専門家でもないですし今更てっぺんを目指すとか、まあ野望が全くないわけでもありませんが上には上がいて、比較の世界は潜在的にもう無理なので(三人兄弟母親の愛の奪い合い)、一人でに気のすむようにやれば段々と生活との間合いが分かってきているというかこうして文章を書いてもこれとは別に原稿用紙に文章を埋めるのは毎日続けていますし隣人の洗濯機の音が感覚過敏のせいにしたらいけないですけど非常に苦しくて、だからといって僕自身も洗濯しますから人のことは言えないのですけど、だからこそ自宅では洗濯機を使わずコインランドリーに行って洗濯して、でもお金はかさむので今現在財布の中には数十円しか入っていませんし、来週の社会福祉協議会の金銭預かりサービスの1万円まで持ちそうにないので、これから社会福祉協議会に行って「お金下ろさせてください」ってキャッシュカードを受け取りに行きます。

ああ、はやく米が食べたい。まあスーパーに行けば米は買える。少々値が上がっても米は買える。でも、非常事態に不足に駆られて条件反射でその不足した対象のものを手に取ろうとしたら、何だかその行いは、危ない気がする。だからこそ僕は前時代的にさつまいもやじゃがいもを主食にして生活してみた。どうにもならない時は口を開けて待ってるのではなく自分が変わって代わりの策をあれこれ歩きながら考えて実践する。

社会的立場に立つとそれなりに果実を得られる。お金もそうだし社会的承認やら可愛いおなごとムフフなことができたり(オキシトシンドバドバ)、車プップードライブやら僕が今住んでいるとこなんて1Rですからね。これが分相応な生活で隣人の洗濯機の音なんて文句言うなと言われるかもしれませんがこれも、引っ越しの機会なのかなと「引っ越し」も考慮に入れております。でも分かりません。引っ越しシーズンは春になってからですし街中で都市ガスで便利のいい今の場所を手放すのも、何だか惜しい気もする。まあ、未来のことですからわかりゃしません。

引っ越しをするにしてもクエストをこなさないといけない。日本の縦社会、世知辛いですよ。スマホでポチっとやれるシステム作ってくださいよー地方自治体さん。でも地方自治体の人が一番頑張っているのは分かりますよ、現場の人はただ上から言われたことをやっているだけで実権として持てる裁量はごくわずか(事情は分かりませんが当事者じゃあるまいし)、文句言っても始まらないから自分の生活を自分のできることだけやることで日々、お金じゃなくて知恵として体験を貯蓄していく。

尻すぼみですけれど、これから、じゃあ、社協行ってくる。今電話かかってきたから。

じゃあのー👋

(帰ってから【音声版】をアップします)

追記。社協から帰ってきました。疲れたので、【音声版】のアップをやめます。前言撤回です。ご無礼承知仕る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?