ひとり 独り 1人
毎年、夏には友達のブルーベリー園へブルーベリーを摘みに行く。
10年前に彼女が開園したブルーベリー園は、農薬も除草剤も肥料も入れず、自然のままに栽培している。
いつのまにか随分と大きくなった沢山の木から、今年も沢山のブルーベリーの摘み取りをした。
毎年、太陽の下でなんだかんだと話ながらブルーベリーを口にいれつつ、摘み、裸足で大地を踏みしめる。
友人とは1年に1度は必ず会っているわけだが、毎年、お互いの近況報告に驚くことばかりだ。
1年に1度ブルーベリーの季節に会っているが、普段ほとんど連絡をとることもない。
自分たちの周囲の人達の人間模様を振り返りながら、私たちの関係が長続きしてるのは、普段余計な連絡を一切取ってないのもいいのかもしれない、という話になった。
今は連絡を取ろうと思えば、手元の通信機器で、すぐに連絡をとることができる。
そして、その返信がなかなかこないとヤキモキするという、パソコンや携帯が存在しなかった時には有り得なかった悩みが増えている時代だ。
連絡をすぐ取れるという便利さが、なかなか曲者で、すぐ連絡を取れなければ言わずに済むようなことまで、連絡しがちだ。
相談する、相談に乗る、そんなこんなのメッセージのやりとりで、あっという間に1、2時間過ぎてしまったりした経験が、誰でもあるのではないだろうか。
こんな簡単に連絡できなければ、自分ひとりでそれを抱えて検討する時間(悩むとも言う)もたっぷりあったり、SNS上やネット上のグループで誰かを叩くなんてことはそもそもできなかったはずである。
通信手段の発展は、人の出会いのハードルを低くしたのと同時に、人を攻撃する陰湿な手段のハードルも低くしてしまった。
善いとか悪いとか、何でもそうだがどちらかの一面だけではなく、裏表がついてまわる。
昔が良かった、とか、古き良き時代とか、そんなことは特に思わない。
戦争の狂気は今の世の中では考えられないほどであったろうし、嫉妬や妬みといったものにも繋がる、攻撃性は人間誰にでも備わっている。
だからといって、誰かを攻撃する必要はないのだが、様々な形で承認を得ようとやっきになっていると、自ずと他人を責めたくなるだろう。
人はひとりでは生きていけないが、沢山の人と関わることが善であるということはない。
そして、少ない人と親密に付き合うのが良いということでもない。
ひとりひとり、心地良いと感じる人との距離や、心地良く関わることのできる人数は違うのだから、何人と関わりがあるから良い悪いと、判断できないはずである。
”友達100人できるかな”なんて歌を散々歌って小学校に入学して、誰とでも仲良くできないとどこかおかしい子扱いで心配されてしまう。
誰とでも仲良くできる人は、それはその人の特性なのではないだろうか。
何百人、何千人と仲良く過ごしても、死ぬ時は1人。
そして、どんなに語り合おうが、側にいようが、お互いが何を考えているかなんて、絶対的に分かり合えない。
自分のなかにある感覚で理解できるとこを理解しあうだけだ。
そこがはっきりわかると、随分と寂しいような気もするが(なにせ友達100人が刷り込まれている)
1人でいること、実際に人と会う距離感、精神的にも独りに耐えられること、そうして自由なひとりの時間をいろんなことに惑わされずに過ごせたら、生きていくための精神的な足腰は少しずつ強くなっていくのではないだろうか、と、思いつつ、今日もひとりこうして文章を書いている。
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