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金曜の私にふれる読書会〜「待つ」ということ/鷲田清一 著〜 「7 省略」

2024年8〜10月、糸島市の前原商店街にある「atelier MOMENT TEXTILE」の店主である指方千奈夢さんと一緒に「金曜の私にふれる読書会」を開催しました。

第二弾となる今回も千奈夢さんの選書で鷲田清一さんの「『待つ』ということ」を読んでいます。

その中でも、昨日読んだ「7 省略」という章が私にとても響いたので、その感想を残しておきたいと思います。


聴くことは待つこと

実は、本を初めて手に取ったとき、目次を見て直感的に気になってまず読んだ章が「7 省略」でした。

聴くことは待つことである。

そこには、私がコーチングを学ぶ中で強く実感してきたことが書かれていました。聴くという体験を重ねる中で、聴くことは気の利いた質問をすることや、問題を解決に導くことではないことがよくわかりました。そして、相手を信じて「待つ」感覚に近づいていきました。

でも、聞き手が話し手の話を待つことができずに、「あなたが言いよどんでいるのは、こういうことじゃないの?」と助け舟を出したくなったり、解決策を提示したりしたくなります。もちろんそれが役に立つ場合もたくさんあります。

本の中では、これを「待つ」と対比させて、「言葉を迎えにいく」と表現していました。

鷲田さんは、聞き手がそのように「言葉を迎えにいく」ことを、「聴く」の最悪なかたちだと指摘しています。なぜなら、話し手が自分の言葉で語るというプロセスを省略し、語ることでみずからの鬱ぎ(ふさぎ)と距離をとるチャンスを横取りすることになるからです。

<他>の訪れを待つ

私も自分にとって重要なことや苦しいことほど話すことが難しいと感じることがよくあります。

まず、この相手に話しても大丈夫かと警戒し、話すことでもっと苦しくなるんじゃないか、話すことで嫌な思いをするのではないかと想像します。大丈夫かもしれないと思っても、言い淀んだり一度言ったことを訂正したりしながら少しずつ話すのでとても時間がかかります。このとき、聞き手が途中で口を挟めば、話したことを後悔したり、話すのをやめてしまったりすることは容易に想像がつきます。

本の中では、「<聴く>とは、どういうかたちで言葉がこぼれ落ちてくるのか予測不可能な<他>の訪れを待つこと」と書かれていました。

私はすらすら話すことが多いので、自分の中で整理できたことばかりを話しているかもしれない、と思いました。だから、たまに言い淀みながら話せたとき、気持ち悪さと嬉しさがあるんだと思います。

私はコーチングや友達との電話など、耳を傾けてもらう体験を通して自分の知らない自分に出会う体験を何度もしてきました。そして、私が以前に比べて少し待てるようになったのは、たっぷり待ってくれる他者がいるときに信じられないほど勇気づけられるということを知ったからだと思います。

参加者の皆さんの声

読書会中に他の参加者の皆さんが言った言葉も印象的で、今日もその言葉を反芻しながら過ごしています。

「答えは自分の中にある」
「私は自分のことを待ってるんだと思った」
「わかりあえない他者と言葉を行き交わすこと自体に意味がある」

今も人の話を聞くとき、相手の役に立っているだろうかと不安になることがあります。「待つ」ことではなく、具体的な行動としての支援を求められているのではないか、聞くだけでは何も力になっていないのではないかという不安です。

でも、<他>の訪れを待つとき、聞き手という<他>の存在が寄与しているかもしれません。寄与までいかなくとも、気負わずにそこにいて、わかちあう機会があったというだけでいいのかもしれません。

私を「待ち」たい

今週は東京に行ったこともあり刺激の多い日々だったので、朝から銭湯に行くことにしました。ゆっくりお風呂に浸かっているとき、ふと「私も自分のことを待ちたい」と思いました。

すぐに答えの出ないことも、きっと然るべきタイミングで答えが出る。
私はきっと自分が幸せな方を選択する。
私が選んだ方が私の正解。

そんなふうに、自分を急かさずに待ってあげたいと思いました。

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