【読んでみましたアジア本】「異」と「記憶」に苦しめられる「脱北者」たちの姿、しかし彼らの過去は見えない/チョン・スチャン・著/斎藤真理子・訳『羞恥』(みすず書房)
みなさんは、「異文化」とはどのようなものだと思っておられるだろうか。
もちろん、その意味を調べると、「生活様式や社会習慣、ものの考え方などの異なる文化」(https://x.gd/Gw1Mk )とある。
ならば、そんな「異なる文化」に接した時、自分はどう処すべきなのか――たぶん、今の日本で「異文化」と聞いたとたん、最も多くの人たちがそれを考えるのではないだろうか。
実際にはそうした「異文化」への対応については、日々ネットで大きな声で叫ぶ人たちがたくさんいる。今、特にわたしが専門とする中国に対して、堂々と、大きな声で、あまり文明的ではない処遇方法を、まるでそれが正義のように論じる人たちも少なくない。
だが、それでいいのか。本当に声が大きいだけの人たちの言葉どおりの対応で良いのだろうか。
日本人はもともと「異」という言葉自体を嫌う傾向がある。「異」=「違うこと」になにやら嫌悪感を感じ、そして嫌悪感から憎悪へと”グレードアップ”させてしまっている人もいる。もちろん、そこまで極端ではなくても、「異」を「できるなら避けたい」と思っている人は少なくないだろう。
だが、なぜ「異」に嫌悪感や忌避感を持つのか。自分のそうした感情について、立ち止まってじっくり考えてみたことはあるだろうか。
筆者は日本人のそうした感情の出どころは、長い間日本が「同族社会」だったからではないかと思う。一つの民族、一つの言語、一つの文化、一つの歴史……そう思い込んできた結果、その「一つ」以外のものには対応できない文化あるいは習慣を、自ら作り上げてしまっているように感じている。
だが、もちろん、日本社会だって、そんな簡単な「一つ」で成り立っているわけでは決してない。実のところ、「異」は民族や国籍の間に限らず、自分と他者、隣人、あるいは家族の間にも存在する。つまり、「異」というのは、実は我々の日常のなかにもひんぱんに顔を出すものであり、取り立てて身構えるようなものではない。
「異文化」とは違う背景を持つ人間同士の違和感それ自体を示す言葉なのである。
ならば、あなたと他者の「異」はいかに育まれてきたのだろう?と考えたことはお有りだろうか。
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