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聞言師の出立 第29話(第6章 2)

 巫の小屋は一人で住むには大きい。
 独りきりだったら広い方がいいのか、狭い方がいいのか。
 初めて小屋の中を見たとき、そう思ったのをアクオは覚えている。アイオーニが住んでいた一つきりの板間は、衝立で半分に分けられていた。
 アクオは衝立の向こう、無数の本が散らばっている方には足を踏み入れず、手前の壁に身体をもたせかけ、聞言筆を手にした。
 ぐるり、、、
 濃い霧の中に、いつもの少女の姿がすうっと現れる。
「漂陰は来た。近くに他の漂陰の気配もあるが、大きなものはもうない」
 ——ああ、うん、そうか。
 元気そうでよかったなどという言葉を期待してはいなかった。それでも、もう少し悦んでくれてもいいのではないか。そう思った己にふと気づき、アクオ自身が驚いた。
 ——ルクトに……他のやつに聞いたんだ。お前がおれを助けてくれたんだってな。
「そうだ」
 それがどうしたとでも続けそうな口調に、アクオは軽く苦笑いする。
 ——ありがとう、助けてくれて。
「話は終わりか」
 ——うん……いや、訊きたいこともあるんだ。
 性格というものがペティアにあるのなら、少なくとも素直さはそこにない。アクオにはよく分かっていることのはずだった。
 ——お前は、ペティアはおれに〝紋〟を遣ってくれただろう。
「造物主の印のことか。そうだ」
 ——お前はそうやって呼ぶのか。うん、それを見たやつから聞いたけど、おれの知らないものなんだよ。教えてくれないか。
「できぬ」
 切って捨てるような物言いにアクオはたじろいだ。
 ——……代わりに何が欲しいんだ。
「違う。我にはもうできぬと言っている」
 ——どういうことだ?
 ようやく少女が表情を浮かべた。アクオを嘲笑する、見慣れた顔。
「よかろう、教えてやる。我は此処に、筆の中に縛られている。故に、一時外へ出るには相応のものを引き換えにしなければならない。引き換えにしたものがその知識だ。従って我はその知識をもう持たぬ」
 ——ま、待ってくれ。つまりお前は、外に出ておれを治してくれたけど、その代わりにあの〝紋〟を忘れたってことか?
 いとけない少女が哄笑する。
「いつもながらくどい」
 聞言師なら誰もが求めて止まない強力な〝紋〟を、ペティアはもう覚えていない。
 永久に失われてしまったものの大きさに、アクオの膝からは力が抜けそうになった。
 ——……あの〝紋〟はどこで知ったんだ。
「汝の言う〈旧キ火ノ山〉に決まっておろう」
 ——は?
「滑稽だな。物を知らぬ者が我の相棒とやらを名乗るとは」
 ——いいから教えろ!
 嗤いを浮かべる少女。だがアクオはそこに、面白がっているような気配も感じた。
「彼の地には、汝が言うところの紋がすべて描かれている。造物主の手に成るものであろうな」
 ——……なんだって。なんのために。
「造物主に訊くがよい。何故壁に描いたのかと」
 底知れぬ深淵を湛える〈山〉の口。その内壁には、ありとあらゆる〝紋〟が刻まれているというのか。
「彼の地にかつて呼ばれた我の欠片が、汝に遣った紋を目にした。我はその欠片ごと、知識を外へ出るための供物とした。知りたくば、汝が彼の地に行けばよかろう」
 ——……行けるかよ、あんなところ。
「知識を易々と手に入れられるとでも思ったか」
 ——うるせえ。
 しかし、だとすれば。アクオははっと気づいた。
 ——じゃあ、お前は他にも〝紋〟を知っているのか。
「知っているが教えぬ」
 ——……欲しいものを言え。
「何が得られても教えぬ。汝に教えるには、外へ出なければならない。外へ出れば、我の欠片が失われる。我の知識が失われる」
 それはつまり——アクオは言葉を呑みこみ、己の浅はかさを呪った。
 知識を得たい、所有したいというのも欲。それでも目の前の少女は、我欲の塊であるはずのペティアは、名を与えられた借りを返すためだったにせよ、文字通り身を削ってでも己を助けようと思ったのだ。
 外の漂陰をいくら己が連れてきても、ペティアにとっては単なる別の欠片。失われてしまった欠片が戻ることはない。それに見合うものを返すことも、今の己にはもうできない。
 ならば、知っている〝紋〟を教えろと言うのは、人にたとえれば身体の一部をただ寄越せと言うのと同じこと。
 それは決して、己が望むペティアとの対等な関係、相棒ではあり得ない。
 ——……おれが悪かった。忘れてくれ。
 少女は珍しいものでも見るかのような目をして、唇の端をかすかに上げた。
「ようやく話は終わりか」
 ——ああ、終わりだ。助けてくれて本当に——
「くどい」
 アクオが言い終わらぬうちに、少女は手を突きだした。

 涙を流しながらぜいぜいと喉を鳴らすアクオは、いくつもの心配そうな顔に囲まれた。
「息が止まったぞ。もう少しで呼び戻すところだった」
 アクオは手を上げてうっすらと笑みを浮かべた。
 やがて落ち着いた聞言師に、サレオが問いかける。
「何を話してきたのさ」
「おれを治してくれた礼と、そのときの〝紋〟を教えてもらおうと思って」
「紋?」
「はい。ルクトが見たのは、聞言師の知らない〝紋〟なんです。その〝紋〟が分かれば、これからたくさんの人を助けられると思って」
「で、教えてもらえたのかい」
「いえ、もう描けないそうです。一度きりのものをおれに遣ってくれたんですよ」
 サレオを殊更に見ながら、声を抑えてそう言った。
「……そうかい、残念だね」
「そうですね。でも仕方ありません」
 目の隅に捉えたルクトは、話を聞いていないかのようにエクテと軽くふざけ合っている。
 アクオは、ほっと胸を撫でおろした。

——————————

 知らせがアクオの短着の替えとともに届いたのは、次の日の朝だった。
「え、もう決まった?」
 村で身体を休めたレイアデスが小屋を訪れ、新しい巫が選ばれたことを複雑な表情で知らせたのである。
 村に〈山〉の異常を伝えたことも再び登ってきたことも労うと、フロニシは訊ねた。
「それは早いな。誰になった」
「……ヌルゴスです」
 二人の世話役が目を見開き、顔を見合わせる。
「……そうかい」
「あの……大人が巫になることもあるんですか」
 アクオは二十五年前にアイオーニが選ばれたと聞き、巫とは子供がなるものなのだろうと思いこんでいた。
「あるよ。巫の試しはまず世話役から始めることになってるし。あれもまだ世話役だからね、だからすぐ決まったんだろうよ。それにしても……」
「ヌルゴスか」
 漂陰に取り憑かれて己らを襲ったヌルゴスに、巫という大切な務めを任せていいのか。二人の顔が不安に染まる。
「あの人は大丈夫じゃないかな」
 レイアデスは母を安心させるように、柔らかい笑みを浮かべながら言った。
「試しのときも選ばれたときも落ち着いていたそうだよ」
「それならいいけど。まあどっちにしろもう選ばれたんだから、あたしらがどうこう言うようなことじゃないね」
「ああ、それからレプトーも一緒に来るって」
「そうか、それはよかった」
 その名をアクオはじきに思いだした。
「巫はここに独りで住まなきゃならないわけじゃないんですね」
「うん。ヌルゴスのように連れ合いがいるなら、二人で来ることもある。だからこの小屋は広くしている」
 それなら寂しい思いをしなくて済むかもしれない——アクオの胸にあった固いものがほぐれていった。
「たださ——」
 レイアデスは顔を曇らせ、視線を落としながら告げる。
 ヌルゴスは巫になることを諾々と受け入れたが、ただ一つだけ請うた。
 フロニシ、サレオ、それに己と諍うことになったアクオやルクトとも、決して顔を合わせたくない。己の心を抑えるために、それだけは譲れない。巫として〈山〉に発つのは、四人が村に帰った後にさせてくれ。
 そう言ったのだという。
「……うん、確かにその方がいいかもしれない。じゃあ急がなきゃならないね。遅くても昼過ぎにはここを出ることにしようか」
「それがいいと思うよ。エーピオも、アクオには早く帰ってきてほしいって言ってたしね」
「なら、まだ時間はありますね。漂陰をできるだけ鎮めてきます」
 アクオはだしぬけに立ちあがった。
 短い間なら漂陰を放っておいても心配はないとフロニシに言われても、腰を下ろすことはできなかった。身体が多少ふらついても、じっとしていることはできなかった。
 巫は大変な務めだ。しかも己はヌルゴスの脚を折った。己に非があるわけではないが、仕方なかったと割りきれるものでもない。
「あれ、そう言えば、巫の漂陰鎮めの舞いって……」
 誰が、、教えるのか。出てこないその一言を、フロニシはすぐに察した。
「それは大丈夫だ。村の大人なら誰でも、新月の祈りで舞いも祝詞も知っているからな。巫の短刀も残っているし、細々としたことは昔の覚書を見ればいい」
 アクオは安堵の色を顔に浮かべたが、外へ出ようとしたところでルクトに呼び止められた。
「俺も行く」
「かまわないけど、なんでだ」
「漂陰の石を採れるかもしれないだろ。今日採れなかったら、俺もう来られないかもしれないからな」
 ——そうか、ヌルゴスが巫になればルクトは来にくくなるわけか。
「ああ、そうだな。アクオ、頼んでもいいか」
「付き添いはおれでいいんですか」
「もちろんだ。聞言師が一緒なら、誰も文句は言わん」
 あんたも行っといで、とサレオが送りだしたレイアデスと連れ立って、アクオたちはすでに見慣れてしまった岩と石の地へと飛びだしていった。


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