聞言師の出立 第28話(第6章 1)
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「逃げろ!」
叫んだアクオも無我夢中で飛びすさり、漂陰の石の残骸からゆらゆらと立ちのぼる闇を凝視した。
松明の赤い光の作るどの陰よりも濃い闇がゆっくりと渦を巻き、巫の背を覆ってゆく。
見えなくなっていく巫の姿から目を引き剥がせないアクオは、気づかぬうちに聞言筆を握り締めていた。
「無駄だ」
頭の中にペティアの声が響く。
「どうにもならぬ。取り憑かれるぞ」
それでも聞言筆を突きだすアクオの腕をルクトが、フロニシが、サレオが掴んで立たせ、後ろへ引きずっていく。
「エクテ逃げろっ!」
理性では抑えきれない恐怖に顔を歪めた、フロニシの叫び。
不安そうな顔で立ち尽くしていたエクテは身体をびくりと震わせ、身を翻そうとし——青い目を見開いた。
己の方へ逃げてくる者たちの後ろで、のたりと立ちあがる巫。
身体を覆いきった闇が肌に、血まみれの長衣に吸いこまれてゆく。
ぱかり、と開いた口にも目にも、闇が凝っている。
「後ろ!」
はっと振り向いたルクトの身体が、宙に飛ばされる。
人ならぬ膂力に、サレオが、フロニシが、アクオが薙ぎ倒される。
「お——」
地を這うような低い声。
「ま——」
聞言師が巫を見上げる。
「え——」
口から零れる闇色の涎。
ぎちぎち——湿った音を立てて巫が、巫だったものが姿を変えていった。
長衣を引き裂かんばかりに身体が膨れあがる。
鳩尾から噴きだしていた赤黒い血が止まる。
見る見るうちに、レイアデスをすら軽々と超える長軀となる。
穴という穴から闇を垂れ流す顔も、すでに人のものではない。
巨体の右腕が
アクオの眼前で
高々と上げられる。
——まさか漂陰ノ者……
アクオは動けなかった。
脚には力が入らない。
皆も逃げられない。
聞言師に憎しみを抱いているのなら……己を屠れば、怒りが、欲が収まってはくれないだろうか。
ただ虚ろに、涙のように闇を零す真っ黒な眼を見上げることしかできなかった。
そのときだった。
不意に、視界を何かが遮る。
「やめろ!」
巫の前に立ち塞がるのは、両手を広げたエクテ。
アクオははっと我に返る。
逃げろと叫ぶも、掠れ声にしかならない。
少年は昂然と顔を上げ、瞳のない巫の黒い目をしっかと見据えていた。
「やめろ!」
幼い声の必死の叫びに、ぴたり、と止まる巫の腕。
咄嗟にアクオは後ろからエクテを抱えこむと、巫に背を向けて己の身体で庇った。
「ぼくの家族だ!」
ふらつきながら起きあがったフロニシが、巫の前に立ちはだかる。
「ぼくの家族を傷つけるな!」
ルクトとサレオが並び立ち、烈火を宿した目で巫を睨めあげる。
「ぼくからもう家族を取るなあっ!」
巫の黒い眼が大きく見開かれ——どろり——闇が流れ落ちる。
地面の松明の灯りにきらりと光るのは、人の目。
視線が少年の、護ろうと身を挺する大人たちの上を彷徨う。
醜く膨れあがった己の身体を見下ろす。
暗雨に突きあげられた手は、力なく己の顔を覆う。
くぐもった低い声が、何かを呟く。
——え?
少年を抱えこんでいたアクオは、思わず振り返った。
人の目と人の目が刹那、絡ませる視線。
指の隙間から何かを語りかけるかのような巫の目。
またも、じわりと浸食しはじめる闇。
突如、雨に濡れた夜陰を、雷鳴のような巨軀の咆哮がつんざいた。
異形の者は顔を覆ったまま〈山〉の口へ凄まじい速さで走りだし、松明の赤い光の端で——
消えた。
力が抜けたように、サレオが座りこむ。
訪れた静寂の中で、止みはじめた夜雨の音とエクテのしゃくり上げる声だけが響く。
——さっき……
聞言師は少年の身体の温もりを感じながら、巫の姿を捜すように灯りの向こうの暗闇を見つめる。
——巫はリオスって言ったのか……?
己の頬を濡らすのが雨なのか涙なのか、アクオには分からなかった。
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巫の身体を得た漂陰ノ者は、〈山〉の口に身を投げた。ずっしりと重くのしかかっていた〈山〉の空気も、元に戻っている。
とは言え、漂陰の宿った大きな石が残っていないとも限らない。
落ちていた巫の短刀を拾ったフロニシは、二手に分けた。まだ雨の残る中、来た道を戻ることになったアクオたちは、松明の光で辺りを探しながら先に巫の小屋へ戻った。
〈山〉の口をぐるりと回ることになったフロニシとルクトが、疲れきった顔で帰り着いたのは、東の空も白みはじめる頃。村からエーピオ率いる者たちが姿を現す直前だった。
奇禍の一部始終を訥々と語り述べ、明るい中で大きな漂陰の石を再び探すのはエーピオらに任せると、生き残った者たちは寄り添って泥のように眠った。
アクオが目を覚ましたのは、陽も中天にかかった時分だった。
小屋の中には誰の姿も見えず、食事と書き置きだけが残されている。皆が漂陰の石を探しに出たと知って、アクオは誰にともなく詫びの言葉を小さく呟いた。
しかし、外をいつも通りに歩きまわれる身体ではないことは確かだった。聞言師は、まだ痛む頭の傷に二枚の〝紋〟——鎮痛の手と治傷の炎——を遣うと、ペティアの描いた〝紋〟に考えを巡らせた。
巫が刺した短刀は、まず間違いなく臓腑を傷つけたはずだ。血も大量に失い、そのままであれば己は死を待つのみだった。
それほどの大きな怪我を治す〝紋〟は、だが聞言師の間に知られていない。
巫が身を投げた後、少女の〝紋〟を目の当たりにしたルクトに訊ねてはみた。だが、何の形をしているかは分からず、己が描いたことのあるどの〝紋〟よりも複雑で大きかったと言うだけで、何の手掛かりも得られなかった。
ルクトが聞言師であれば、術で記憶を探るという手も使えた。だがそれを言っても始まらない。
すぐペティアに訊こうかと迷いもしたが、まずは用意されていた食事に手をつけることにした。失われた血が〝紋〟ですべて戻ったわけではないのだろう、身体は重く、いつものように動こうとすると目眩に襲われる。食事の横に残されていた書き置き通りに、大きな漂陰の石が見つからない限り小屋から離れず、身体を休めなければならない。
——しばらく〈山〉を下りられないだろうしな。
エーピオから聞いた話では、レイアデスは夜になって村に戻ったという。渡された書き付けを読んだ村の世話役はすぐに動いた。
村の男たちを連れて、エーピオは〈山〉へ向かった。
残ったカーイコンも、聞言師が幾人かいるリメンの町まで使いを出しているはずだった。
最寄りの町と言っても、己の旅路を考えれば片道三日はかかるはずだ。聞言師が〈山〉に着くまで、早く見積もっても七、八日。しかも、新しい巫が決まるのはいつになるか、誰にも分からない。それまでの間、〈山〉の漂陰を鎮められるのは己しかいないのだ。
だが、アクオの気が重かったのはそのためではなかった。
——ああ、またしばらく湯家に行けないなあ。
そう思いながら、まるで底なしの胃袋に冷めた食事を詰めこんでいたアクオは、いつの間にか、ひんやりとした床の上で再び眠りに落ちていた。
巫が隠していた大きな漂陰の石は他にない。
その知らせをアクオが聞いたのは、夕方のことだった。
ほっとした面持ちのエーピオは、視線を合わせずに後のことをアクオに託すと、男たちと一旦村へ戻っていった。
しかし、巫の小屋に残ったのはアクオだけではない。
「おれは独りでもかまわないですから、みんな村に帰ってくださいよ」
アクオがいくらそう言っても、頑として動かない者たちがいたのだ。
「お前、料理できないだろ。俺がいなかったら飢え死にするぞ」
「一人だとあんた、無茶しかねないからね。あたしがしっかり見張っとくよ」
「ルクトの飯は味が濃い。私が作る」
漂陰ノ者に抗った者たちが、ことごとく残ったのである。
首を振って苦笑したアクオは、エクテの顔を見た。
「馬鹿じゃないの、帰るわけないでしょ」
エクテは器用に片眉だけを上げ、そう言い放ったのだった。
フロニシのような表情、ルクトのような憎まれ口。
「そういうところ、似るなよなあ……」
にやりと笑った少年の土色の髪を、アクオはぐしゃぐしゃに掻き乱した。
だがアクオには分かっていた。
誰も、己を独りで〈山〉の上に残したくないのだと。
村の者ではない己に漂陰を鎮める役目を押しつける形になったことを、申し訳ないと思ってはいるのだろう。しかしそれよりも、巫のことが忘れられないのだ。巫のことが忘れられない己を独りにしたくないのだ。
エクテほどの歳からフロニシほどの歳まで、ほとんど独りきりで〈山〉に閉じこめられていた巫。
漂陰を解き放とうとしてきた企みは赦されるものではない。とは言え、その最期が自業自得だったと思うことは、どうしてもできなかった。
そしてアクオにはひとつ、考え続けていることがある。
——なんで巫は身を投げたんだろう。
エクテに昔の己を——。大人たちに昔の己の家族を——。
そうやって簡単な言葉にしてしまえば、きっと納得できる。
しかしそうすれば、やがては記憶の奥に折り畳まれ、時折思いだすだけになってしまう。忘れさえするかもしれない。
それでいいと思うことが、アクオにはできなかった。
最期に視線を合わせた、巫の目。
最期に呟いたように聞こえた、己の師の名。
何を伝えようとしていたのか。何を思って口にしたのか。
忘れてはならない。考え続けなければならない。聞言師としてではなく、最期に立ち会った人間として。
たとえ答えが永遠に出なくとも。
アイオーニという名の巫がかつていたことを、他の誰もが忘れてしまったとしても。
——師匠にも、何をどこまで言ったらいいんだろうな。
都に帰り着くまでの長い道のりでも、答えを出せるかどうか心許ない。本当に難しいと川縁で洩らしていたフロニシのやるせなさが、少しだけ分かったような気がした。
——じゃあ、そろそろやるかな。
まだ生々しい記憶を頭から一旦振り払い、アクオはペティアに会いに行くと告げた。