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聞言師の出立 第31話(第6章 4)

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 それからの十日間は、アクオにとって長いようで短かった。
 日限を切ったのはアクオ自身だった。
 まず、漂陰の残っている石を盗んだという疑いは晴れて解けた。
 その詫びの印と麦枯れを治した礼として、村の一角にひっそりと立っている土蔵への出入りが許された。中には、遙か昔から連綿と受け継がれてきたさまざまな書が所狭しと置かれており、その光景にアクオは呆然と立ち尽くしたのだった。
 とは言え、どれほど時間をかけても読める量ではない。しかもほとんどは、触れることもできないほど古び果ててしまっている。アクオはフロニシに選ばせて、片端から読みふけった。
 歴史、物語、伝説、習俗。
 新しい知識をひたすら吸収していった。都に帰ってから聞言術で思いだし、改めて本の形で書き記そうと、一言一句を頭に刻みこんだ。
 それだけではない。病を得た者があれば術で治す。麦が枯れた畑の様子を見に行く。呼ばれれば村人の宴に顔を出す。愛馬に重い農具を曳かせながら、フロニシやルクト、エクテと畑で汗を流す。ルクトと肩を並べて、フロニシから耳飾りの作り方を教わる。伸びてしまった枯草色の髪をルテラに短くされる。
 来る日も来る日も、頭と身体を疲れさせ続けた。
 無用なことを考えないために。
 それでも、ふとした拍子にエーピオの最期の言葉が脳裏に蘇る。
 村の子供のひとりでしかないはずのエクテに、エーピオは何故謝りたかったのか。
 己が知る二人の係わりは、エクテの父親のアステールとエーピオが結ばれそうになっていたということのみ。そしてアステールは、泳げるのに溺れ死んだという。
 では、世話役は何故己に口止めしたのか。何を、、口止めしたかったのか。
 エーピオは急に心の臓の病を得て、聞言術で手を尽くしたが旅立った。そういうことになっている。であれば、自ら毒を服したことを口外されたくなかったと単純に考えるべきなのかもしれない。
 しかしそもそも、エーピオは何故毒を呑んだのか。
 己が筆の漂陰から何かを知ってしまうかもしれない、知ってしまったかもしれないと疑心暗鬼に囚われていたということはないのか。
 筆の中ではあらゆる望みが叶う、そうサレオに言ったときの話を聞いていたということはないのか。
 聞言師である己が〈山〉から帰ってくるのを待っていた、ということはないのか。
 人が聞言筆の中に棲むことはできない。だが、自らの欠片だけでも、あらゆる望みが叶うという深い霧の奥に棲まわせたいと望んだとしてもおかしくはない。己こそがどこかでそれを望んでいるのだから。
 そのすべてに答えを出しうる手立ては、ある。
 己の聞言筆に棲むペティア。
 エーピオの記憶と秘密を知ったかもしれないペティアに訊けば、何かが分かるのではないだろうか。
 幾度もそこまで考えながら、アクオはそれを己に禁じた。
 エーピオに〝紋〟を遣った後にペティアに会って言ったのは、都に帰るまでしばらくは漂陰を吸いとれないだろうということのみだった。不愉快そのものの顔をされたが、アクオは早々に話を切りあげた。
 ペティアのいとけない顔を見ていれば、訊きたくないことを訊いてしまいそうで怖かった。
 ——おれは知らなくてもいいことなんだ。
 そう己に、何度も何度も言い聞かせたのだった。

 旅立ちの日がやって来た。
 空は晴れ渡り、そよ風が背から吹いている。また朝が来たことを寿ぐように、鳥がさえずりながら舞っていた。
 大半の者が、村のとば口の小さな家までアクオを見送って手を振った。
 切り立った崖に陰を作る〈岩ノ口〉までは、言葉少なにフロニシ、ルクト、エクテ、そしてサレオとレイアデス、ルテラが、馬を曳いた聞言師についてきている。
「あんたには本当に世話になったね。気をつけて帰るんだよ」
 口々にそう言って、サレオとルテラが旅人を固く抱き締める。
 エクテは勢いよくアクオに抱きついたかと思うと、ぱっと離れて後ろを向いた。
 男たちは、昼間の月のようなぼんやりした笑顔を浮かべている。
 誰も、また来いとは言わなかった。
 都から数十日もかかる旅路を、アクオがまたやって来られると思う者は誰もいなかった。
 アクオもまた、二度と見ることのないはずの顔を胸に刻みこんだ。
「皆さん、お世話になりました」
 ルテラとエクテが洟をすすり上げる。
 言いたいことは、前の夜の宴で一人ひとりに伝えた。もう言うべきことは何もない。
 それでも、アクオは胸の内を探る。
「いつ——」
 いつかまた。その言葉を出すことはできなかった。
「いつまでも、皆さんお元気で」
 くるりと背を向け、アクオは〈岩ノ口〉の暗がりに足を踏みだした。
「またな!」
 後ろからルクトの大声が追いかける。

 聞言師は出立した。


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