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【短編小説】君と雪と怪人と【一話完結】

 まったく、溶けたゴムのように煩わしい夏だった。真夏の暑さには、いい加減うんざりしていた。秋風が吹く頃、僕は都会の暮らしから逃げ出した。社会生活、責任、食べていくことに嫌気がさして、朝も夜も魘されて、掃き溜めのような町から這い出るように、雪の降る町を目指した。
 
 肩の凝る列車に揺られ、北国の町に辿り着くと、降っていたのは雪ではなく雨だった。生温く、細やかな雨に打たれ、僕は安い劇場に駆け込んだ。

 千円のチケットと、五百円の瓶コーラを購入し、その劇場に入ると、席は全て埋まっていた。腕時計を見遣ると、十二時十分前だった。劇は、十二時の開演らしい。当日券で駆け込んだ開演十分前の情景としては、まあこんなものかと結論づけた。で、致し方なく後方の立ち見席に足を運び、壁に凭れた。

 舞台に現出したのは、一人の若い女性だった。と、言っても、僕とそう変わらない年の頃だ。

 女は、客席を右から左へと舐めるように見渡してから、深々と礼をした。すぐと歓声が沸く。振動が、身体を包み込む。人々の雄々しい声、波動がこちらまで届く。後ろに立つ僕の元にまで、こんなにも強く届いているのだから、彼女はもっと凄まじい感覚に苛まれているのだろう。彼女だけが知るその絶頂、僕は少し羨ましくなった。

 頭をもたげた彼女を、僕は一目で気に入った。なんと美しい女性だろうか。誰よりも可憐で、誰よりも気高い。誰も、彼女には触れられない。

 それからすぐと、彼女の優美な肌がぼうっと浮き立って見えた。肩にかかる長い髪は漆黒を湛えている。切れ長の目と相俟って、どこか和風な雰囲気を醸し出している。黒髪に縁取られた輪郭は小振りで、余裕綽々と舞台に立つ姿態とは裏腹に、思いのほか華奢で繊細な印象を受けた。それもまた、僕が彼女に見惚れる要因となった。

 やがて、女は語り始めた。

「狭山秋菜です。本日は、お足元の悪い中、ようこそお越しくださいました。心ばかりのお礼ではありますが、どうぞ最後までごゆっくりとお楽しみくださいませ」

 声は深く澄んでいて、実に流暢な台詞回しだ。

 刹那のことだった。目が、目が合った。僕は、ついに天使を見つけてしまった。

 秋菜が魅せる踊り、歌、語り、その全てが、壊れかけた心の底に安らぎを与えてくれた。寝て見る夢よりずっと素晴らしい。彼女は、僕の理想そのものだった。僕は、天使の笑顔に絆された。

 後から出てきた俳優、踊り子たちのパフォーマンスも、それはなかなかのものだったが、やはり僕は秋菜から目を離せなかった。一般的には見目麗しいとされる男女たちの織り成す舞台の上の世界より、ただ一人僕の視線を奪い去った彼女の一挙手一投足が、胸をときめかせた。

 緞帳が下り、昼の劇は終了した。終演のアナウンスが流れると、観客はぞろぞろと席を立って劇場を出ていく。僕は人の波が引くのを待ってから、最後に席を立った。

 舞台袖から劇場廊下までの掃除に励む秋菜に、一声かけてみることにしたのだ。彼女は僕の存在に気づいたのか、手を止めた。僕は、斜めに掛けた駱駝色の鞄の肩紐を握り直し、一歩を踏み出した。

「君が……君が一番可愛かったよ!」

「え?」

 秋菜は、きょとんとして小首を傾げた。

 僕は、自分のとんでもない失言に漸く気がついた。が、時すでに遅し。秋菜は、その白い頬を紅潮させて言った。

「ありがとうございます……」

「い、いや、その、これは要するに、ね?」

 僕は慌ててその場を後にした。劇場の外に出ても、まだ心臓は早鐘を打っていた。彼女の顔や声を思い出すだけで、顔中が熱くなるのを感じた。逃げるように、近くの喫茶店に駆け込み、ブラックコーヒーとフルーツサラダを食した。夜の公演に参加しないという手は、最早ない。

 劇場に戻ったのは、開演四十分前の十七時二十分。売り場に立っていたのは、支配人と思しき老翁だった。何かしらの病を患っているのか、異様なほどに顔色が悪い。声はしゃがれ、客達にチケットを渡すその手は震えていた。僕はもちろん、秋菜の出る舞台のチケットを買った。千円と、五百円。ドリンクは、メロンソーダを注文した。

 やはり、田舎町にある裏通りの小さな劇場だ。少しだけ早く足を踏み入れるだけで、最前列の席に座ることは容易だった。センターこそ常連客で埋まっていたものの、下手にはまだ空席が目立っていた。

 下手三番席に腰を下ろし、目を閉じる。昼間見た天使の踊りを、歌を、語りを、反芻して楽しんだ。

 ほどなくして、劇場に明かりが灯る。舞台袖から秋菜が登場した。彼女は、客席に向かって一礼してから舞台の中央に立ち、客席全体を見渡しながら口を開いた。

「狭山秋菜です。本日は、お足元の悪い中、ようこそお越しくださいました。心ばかりのお礼ではありますが、どうぞ最後までごゆっくりとお楽しみくださいませ」

 目と鼻の先に、雲上の天使が舞い降りた。不意に空から舞い降りた天使は、舞台の上で可憐に舞う。昼間とは比べ物にならない美しさ。飲み干したメロンソーダの氷が、からんと音を立てて崩れた。

 僕は時間の流れを忘れていた。それほどまでに、秋菜の姿は綺麗だった。目が合う度、彼女は小さく微笑んだ。曩の奇行が吉と出たか、僕のことを気にかけてくれたのかもしれない。

 全ての演目が終わり、緞帳が下りるはずだった。妙な静寂が辺りを支配し、秋菜の元へ光芒が降り注ぐ。彼女は徐に目を伏せ、左手を胸に当てた。そして、切迫した面持ちで客席を広く見据えると、震える声で言った。

「皆様に、ご報告があります」

 人々の息が、全て静寂に呑まれた。彼女の言葉に、誰もが耳を傾ける。

「私、狭山秋菜は、本日限りでこの劇場を退団させていただきます」

 辺りの空気が一瞬にして凍てつく。誰もが言葉を失った。理解の及ばぬ世界に、僕の思考回路はショートした。深刻な浮遊感にも苛まれ、力が抜ける。彼女はこう続けた。

「本当に、大好きな舞台でした。私という役者の物語は終幕を迎えますが、これから来る未来、人としての未来、女性としての未来、それら全てのシーンで、今この瞬間に培ってきたことを生かし、咲き誇ってみせます。どんな苦難にも耐え抜き、人生を謳歌します。今まで本当にありがとうございました」

 この日、一番深く重い拍手が、劇場を包み込む。客席は総立ちだった。僕はただ俯きながら、涙する秋菜の姿を見ていた。その涙が彼女の頬を伝い、舞台に一雫、また一雫と落ちるのを見届けた。けれど、この僕としては、このまま彼女を舞台から降ろす訳にはいかなかった。都会の暮らしで憔悴しきった僕の心の弱さが、辛すぎる現実を受け入れることを拒んでいた。僕は、どうあっても彼女の物語を終わらせまいと、回らぬ頭で答えを探った。そして弾き出した答えは……こうだ。

「……やめろ! やめてくれ!」

 壇上に駆け上がり、秋菜の身体を優しく抱きしめた。観客も、支配人も、演者たちも皆、誰もが呆気にとられた様相で僕を見る。抱き竦めた肩の後ろで、彼女がどんな顔をしていたのか分からない。ただ、消え入りそうな息遣いと、震える身体の振動が、僕の心を締め付けた。僕は、もう一度声を上げた。

「もうやめてくれ! 君ほどの女性が、僕の理想が、こんなところで終わっていいはずがないじゃないか! だから、そんなことは言わないでくれ!」

 遅れてやって来た警備員が、僕の身体を引き剥がす。だが、離れない。秋菜は、僕の胸の中でしゃくり上げていた。嗚咽混じりに、途切れ途切れの言葉が聞こえる。

「どうして? 私はもう役者をやめるの! 離して!」

 そのか細い声は、僕の心には届かなかった。なおも力尽くで食い止めようと試みる警備員が、僕の腕を強く捻り上げる。それでも僕は彼女を離さなかった。立ち尽くす演者たちを横切り、もう一人の警備員がやって来る。先刻より屈強な男だった。彼は、秋菜の身体ごと僕を舞台から剥がそうと試みた。このことに激昂した僕は、思わず声を荒らげた。

「下郎! 天使に触れるな!」

 次の瞬間、後頭部に強い衝撃が走った。目や鼻の奥が疼くように痛み、頭がくらくらする。床に叩きつけられながら、殴られたのだと悟った。咳き込みながら起き上がろうとする僕に、もう一人の警備員が言い放つ。

「マジモンが! こっちに来い!」

 僕は、そのまま劇場の外へと連れ出された。

 濡れたアスファルトに押さえつけられたまま、支配人のしゃがれ声を聞いた。

「おまわりさーん」

 あまりの滑稽さに頬を崩してしまったのは、僕ではなく警備員の方だった。その隙を、僕は見逃さなかった。押し返すように身を起こし、体当たりをかます。警備員がバランスを崩す。僕は真っ直ぐに駆け出した。

 暗がりの中、雲間から覗く僅かな月が、町を朧げに照らし出す。雨は相変わらず降っていて、肌を打つ度痛みが走る。まだ九月だというのに、凍えるように寒かった。

 畢竟、束の間の雨は、僕と天使を出会わせてくれた。かけがえのない安らぎをくれた。しかし、秋菜はもういない。しばらくシャツに残った水痕が、彼女の暗涙なのか雨なのか、今からではもう見分けようがない。所詮、泡沫の夢物語。僕が生きるには、眩しすぎる世界だった。

 翌日からの風邪で記憶が飛ばされたのか、或いは天使の魔法にかかったのか、僕はそこはかとなく日々の暮らしに溶けた。あれだけの事を起こしたにも拘わらず、紙面を飾ることも、警察の世話になることもなかった。もしかすると、本当は全て嘘だったのかもしれない。なんだったら、あの日の全てが一夜の夢だったのかもしれない。

 それでもいつかまた、緞帳の上がる日がくるだろう。きっとまた、君と会うだろう。そしてまた、君を困らせるだろう。

 今頃、どこか遠い国の花園で、カトレアと空を見上げる君の瞳が、あの日より綺麗になっていないことを、希う。

 都会の鬱陶しい雑踏の中、ついにひとひらの雪が舞い落ちた。

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