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祖母のこと

最近出会う人や知る人から良くおばあちゃんに育てられたという話を聞く。
それで祖母との関係に目を向けてみる。
記憶があるうちに書いておきたい。

私が生まれた時に父方は祖父母がいて母方は祖母だけだった。
父方の祖父母の話は父から聞くよりは母から聞くことが多かったので、嫁の立場からの話上あまり良い印象ではなかった。
私自身祖父母との思い出はあまりない。
しょっちゅう遊びに行ける場所にはいなかったから、関わりも薄い。
行くのはお正月とか法事の時だったから、いつも大勢人がいて、その中心に座っている祖父と、端っこにいる祖母の印象が強い。
何を話したのかも思い出せない。
親戚が集まる時はいつも男性と女性に分かれて、それぞれに思い思いの話をしていた。
子どもたちは子どもたちで遊んでいたから、祖父母とどこかへ行くとか、何かを教えてもらうというようなことはなかった。
母方の祖母の話も良く聞いていたが、どちらの祖父母にも可愛がられたという記憶はない。

両親は二人とも中間子ということもあって、本人たちも親から目をかけられることもなく、親に甘えるということもなかったのかも。
父方には毎月仕送りし続けてもいた。
そのことを母はいつも不満そうに話していたのが印象に残っている。

母方の祖母は韓国では上流の家庭に生まれたお嬢様だったが顔に傷があったため、学者の祖父に嫁ぐことになった。
その時に持って行った家財道具やお金は全て祖父の親族に食い潰されてしまったというエピソードを良く母から聞かされていた。

学者だった祖父は日本に留学にきて、そのまま日本で過ごし亡くなったそうだ。
苗代という場所にあった祖母の家は今でも思い出すことができる。
家から歩いて15分ぐらいのところにあったので、週末良く遊びに行っていた記憶がある。
目の前には銭湯があり、隣は駄菓子屋だった。
今住んでいる家は祖母の家に似ているかもしれないなぁ。

日本語の読み書きが得意ではない祖母は時々聞き取れない言葉を話していた。
今思えば韓国語だったのだろう。
従兄弟たちが来るといただきますとごちそうさまは韓国語だった。
料理上手だった祖母のご飯は大好きだった。

寡黙な人で少し近寄りがたい雰囲気があったから、子供心に懐くこともできなかった気がする。
祖母の家にに行く楽しみは当時独身だった叔母が買っていた少女漫画だ。
行けば新しい漫画雑誌がある。
そこからなかよしやりぼんを読むようになった。
当時私の一番好きな漫画はキャンディキャンディだったな。
一条ゆかりさんの砂の城は多分その漫画雑誌を読んで単行本を買った。
宝塚の舞台に連れて行ってくれたのも叔母だった。
叔母の影響も大きかったんだ。

母は5人姉妹の4番目。姉妹の中では唯一のお父さん子だったらしく、そこが母にとっては安全地帯だったのだろう。
高校の時に祖父を亡くしている。
自分の居場所を無くした母の心中もまた良く聞かされていた。

母自身が祖母に甘えられなかったように、私もまた母に甘えることができなかった。
母は祖母から頼りにされていたのだとか。
母がそれを望んでいたかどうかはわからないけれど、頼られることはイヤではなかったみたい。
私と母、私と祖母との関係性はそんな感じだから、私には絶対的な安全地帯というものがなかった。
父も甘えられる雰囲気を持っていない。
そこにいればなんの不安もない私自身を丸ごと受け入れてくれる場所を持たないままに大人になった。
だから無意識に甘えられる場所を求めてしまうんだろうな。

人に甘えるとか頼ることは今でも苦手だ。
経験値が圧倒的に少ない。
弱みを見せないのではなく見せ方を知らないだけ。
曝け出したら嫌われるかもという感覚ともちがうんだけど、今はまだ言語化できない。

祖母はどんな気持ちで私を見ていたのかな。
まぁ、扱いにくい子という認識はあったのかもしれない。
昔は顔に青筋のある子や白目が青い子は癇癪持ちと言われていて、なんかそれらしいことを言われてたような気がする。
私と下の弟はいつもそういう扱いだったな笑
あちらに行ってもし会えたら聞いてみよう。


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