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阪神淡路大震災、夢破れた母

こんにちは!春休みに突入したわのです!
久々の投稿ですが、本当は一月に投稿したかった内容を今回は書きたいと思います。

■私の母について
1月17日、阪神淡路大震災から27年が経ちました。
当時、私の母は美容師として神戸で働いていました。
母も私と同じ離島出身で、母にとって神戸の街は今よりもっと遠く、キラキラした憧れの街だったことでしょう。
そんな街で、母は高校を卒業してからずっと働いていました。

母から聞いてきた被災した当時の話は、
母は寝ていて夢だと思っていた
起きて出勤しようとドアを開けて初めて街が壊れているのを目の当たりにした
鏡がバリバリに割れた美容室の片付けを若手の美容師たちでした
そのくらいでした。
少し、電話も通じない水も出ない状況だったなどという話も聞いたことはあったけれど、あまり自分がした辛い経験を積極的に話すことはしない朗らかな母です。

■被災後の母
被災後、母は神戸での仕事をやめ、島に帰ってきました。
島で自分のお店を持ち、たくさんのお客さんに恵まれて、今でも仕事を本気で楽しんでいて、自分の仕事を愛しているところは私も本当に尊敬しています。

島に帰ってきて間もなく、中学校の同級生だった私の父と再会し結婚したわけなので、もし震災がなければ私は生まれてこなかったかもしれません。
今年の1月17日、父は家族LINEで
「今日はご縁をいただいた日でもあります」
と言っていました。

■私が23歳になって気付いたこと
そんな中、今年の震災の日を迎えた時、私はあることに気づきました。
「母はどんな気持ちで神戸を後にして島に帰ってきたのだろう。」


憧れだった大好きな神戸の街が壊れる姿を目の当たりにして母はどう思っただろう。
まだまだ美容師として都会で叶えたかった夢もあっただろう。
恋人はいなかっただろうか。

今まで被災者としての母の苦しみを考えたことはあっても、被災をきっかけに変わってしまったの母の人生については想像したことがありませんでした。


当時の母の年齢と近くなってきて初めて、
『父がご縁をいただいて
私と兄がこの世に生まれるきっかけとなった日が
母にとっては夢破れた日である』

ということに気がつきました。


■私にできること
私がそんなことに気づくずっと前に、母はそれを乗り越えているわけですが、
それに気付くところまで成長した私としては何ができるか考えたかったのです。

私が2浪目の受験を失敗して、医師になることをいよいよ諦めようとした時、母は
「お母さんも同じような経験実はしたことある。だからわのには同じ思いしてほしくない。お母さんのためにもう1年頑張ってくれない?」
と言ってくれました。

あの時はその母の経験が何なのか全く想像もつかなかったけど、この歳になって自分も医師という夢のスタートラインに立って将来が現実的に見え始めた今やっとその答えがわかりました。

今私に娘としてできることは、自分の夢を叶えていく姿を母に見せてあげることだと考えています。

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