《今年の就学相談会》(その4) 《やまゆり園事件と川崎の就学裁判のこと》

「ふつう学級」の世界を知らない親は多い。
「ふつう学級に行けるんですか?」「行ってもいいんですか?」「夢のようです」という人さえいる。
そして、「ふつう学級に行かせたいと願うことに、罪悪感を持たなくてよかったんですね」とつぶやく。

2021年の今も、「ふつう学級」とはそういう場所としてある。

「本人と保護者の意思が尊重される」と言われる。しかし、川崎市や神奈川県や横浜地方裁判所が、親と子どもの思いを無視したのは去年のこと。親子が「ふつう学級」に行くためには、神奈川から東京に引っ越しするしかなかった。支援学校に入るために、他県に引っ越す人はいない。そういう場所が、親の「選択」できる場所と言えるだろうか?

校長が「いじめられますよ」と6歳の子どもに宣言する場所。そして専門家や教育委員会が、口をそろえて、「そこでは子どもの力が伸びない、自己肯定感が持てない、自信をなくす、二次障害を起こす、友だちができない」と心配する場所。

幼い仲間の中で育つことを願う親が、その願いに罪悪感を抱く場所。それこそが間違ったメッセージを子どもたちみんなに送り続けている。

障害児の受け入れは、中学高校より小学校、小学校より幼稚園・保育園の方がいい。つまり、幼い時に一緒に育ってきた子どもを「分ける」ことで、大人に近づけていくのが、この社会のやり方になっている。だから障害を理由に「定員内不合格」が出されることも問題にされない。

それなら、この社会で求められる「大人」には、ならない方がいい。なれない方がいい。なってたまるかと思う。

断わっておくが、これは「ふつう学級」と「支援学級」とどっちが「正しいか」という話ではない。「子どもがどこにいても、私たちは子どもの人権を守る」という意思があるかどうかを、どうやって子どもたちに伝えているか、見せているか、の話だ。
      

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小学生の時に、「通級」してくる障害児を見て、その母親が「かわいそう」に見えた少年がいた。彼は大人になって障害者施設で働く。そこで分けられ、縛られ、拘束される障害者を見て、やっぱり「子どもの時にみた光景と同じ」「この人たちは大事にされない存在」だと結論した。それなら生きていても仕方ないと考え、その「親」たちのために事件を起こした。だから彼は今も自分の「間違い」は認めないが、自分が殺した人の「親」には謝罪する。・・・これが、私にとってのやまゆり園事件の理解だ。

彼は施設で働く前、先生になろうとしていた。もし彼が学校の先生になっていたら、そこで「大事にされない障害児」を見ていたら、「事件」の被害者は「子ども」たちだったかもしれない。

彼に、障害者に生きる権利はないという考えを変えさせた人は、まだいない。死刑を覚悟している彼の考えを、変えられる人が現れるだろうか。間に合うだろうか。彼のように考える大人を、二度と育てないために。そのためには、私たちは、子どもがどこにいても、どんな障害や病気や事情を抱えていても、子どもはみんなふつうの子どもとして大切にする姿を、子どもたちにみせることだと思う。

くり返すが、これは「普通教育」か「特別支援教育」のどっちが正しいかという争いの話ではない。「どこにいても」だ。

一人の6歳の子どもが、小学校に通いたいと願うとき、市教委と県教委と裁判所がその親子を他県に追い出す社会。やまゆり園事件を起こす人間は、「普通教育」の学校で育った。それならば、特別支援教育の関係者こそ、「ふつう学級」でも障害児が大事にされるように働きかけるべきではないかと私は思う。

ふつう学級でも、支援学校でも、子どもがどこにいても、その子が仲間と学びたい場所で、それを大事にできることを子どもたちに伝えたい。

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