就学相談会のためのメモ・安全とつながりのために》(その2)
《45分座っていられるかな》
ふつう学級への心配の一つがこの「45分」の話です。その先にはこんな言葉がつづきます。「ついていけるかな」、「迷惑をかけるんじゃないか」、「分からない授業はかわいそうかも」、「退屈なんじゃないか」、「一人でさびしい思いをしないかな」。
それにしても、「45分座っていられるか」という呪文は、どうして30年以上も同じ形で語り継がれているんだろう。
「いま3歳のこの子が、3年後に45分座っていないとしたら?」
言葉のままに、素直に考えてみる…。今の時点で分かることは、「きっとその子はまだその場所で、安全や安心を感じられないんだな」ということ。
「もしも3年後、45分座っていないとしても!」
「障害があるから」というより、「子どもだから」じゃないのかな。
だから、その時にはちゃんと子どもに伝えてあげよう。
「45分座ってなくていい」
「学校中を探検していい」
「君が安心と安全を感じるために、そのことが必要なら」
「みんなと遊び、学ぶ前に、それが必要なら」
「必要なだけ時間をかけていい」
「だって、あなたの安心は、あなたにしか感じられないんだから」
「自分で自分の安全を感じること。それは自分でやるんだけど、一人でやるんじゃない。ここで、みんなと一緒にみつけよう」
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「学校には、そんな言葉はない」と思いますか?
「そんな言葉が学校にあるなら、こんな心配はしない」と。
もしもそう感じるなら、「子どもの障害」をどうするかじゃなくて、「学校の言葉」をなんとかしよう、ですよね。
そもそも2歳や3歳の時点で、将来の「心配なこと」を数え上げたら、いくらでも思い浮かぶでしょう。だって、まだ幼く大切なかわいい子どもの、「未来」のことなど誰にもみえないことだからです。
本来、その心配は「ふつう学級に行けるか」という問いにつながる話ではありません。そうでなく、「どうしたらみんなのいるここで、この子に安全を感じてもらえるだろう」と知恵を絞ることにつながるはずなのです。
「不安なら、ここにいてはいけない」というのは、ただの意地悪な大人の発想です。ましてその子が保育園に通えていたのであれば、そこでは「安全・安心」を感じていられたのですから。
私たちが考えたいのは、その「安全・安心」を、「6歳以降も守り続けるにはどうしたらいいか」。
「ここにいるのは無理」と思考停止するのでなく、「どうしたらこの子はここで、安心を感じてくれるだろう。この子の安全のために、何ができるだろう」と考え続けること。
まして、子どもとつきあう仕事を選んだなら、それが一番の仕事だとおもう。
だって、子どもが自分で確かめる安全と安心の感覚、それはこの子の人生に渡って不可欠な安全・安心なんだから。
(つづく)