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『これが人間か』人とは、ここまでグロテスクになれるものなのか!?



プリーモ・レーヴィはユダヤ系イタリア人。トリーノ大学を主席で卒業した科学者だ。彼は24才の時にパルチザンとして活動中に逮捕される。1943年の事だ。翌1944年にアウシュヴィッツに移送され、開放されるまで強制収容所で地獄のような日々を送った。彼が送られたのはアウシュヴィッツの中の第三強制収容所モノヴィッツである。この収容所は強制労働を主目的としており、囚人はイーゲー・ファルベン社の合成ゴム工場「ブナ」で強制的に働かされる。


著者レーヴィがモノヴィッツでの日々を克明に記録したのが『これが人間か』である。本書は『アンネの日記』『夜と霧』と並んでアウシュヴィッツの古典記録文学という評価を得ている。その改訂完全版がこのほど出版された。


逮捕されたレーヴィはイタリアのモデーナ近郊にある抑留収容所に送られる。ここには六百人を超えるユダヤ系イタリア人が収監されていた。1944年2月22日にユダヤ人はこの抑留所からアウシュヴィッツに汽車で送られることになる。家畜用の貨物列車数両に男女が詰め込まれる。すし詰め状態の車内は、絶望と疲労と不快な環境とで息が詰り些細な事で喧嘩が頻発した。4日間に渡る旅で人々は糞尿にまみれ汚れていく。水すらも与えられなかった。


4日後の夜、汽車はアウシュヴィッツに到着する。ここでSSの将校たちが機械的で淡々とした調子でレーヴィたちを選別する。この時、96人の男と29人の女がモノヴィッツとビルケナウの収容所行きに選ばれた。残りの五百人以上は例外なく2日以内に殺されたという。ガス室行きになった者には著者の知人の娘もいた。


こうして三歳のエミーリアは死んだ。(中略)ミラーノの技師アルド・レーヴィの娘、エミーリアは、好奇心にあふれ、見えっぱりで、ほがらかで、頭のよい女の子だった。旅行中、人のひしめく貨車で、父と母はブリキの桶に温かな湯を入れて、エミーリアに湯浴みさせた。そのお湯は、堕落したドイツ人機関士が、私たち全員を死に引きずっていく当の機関車から、取り出すのを許したものだった。


汚れていくわが子を、少しでもキレイにしようという両親の切なる思いに胸を打たれる。ほがらかなエミーリアは両親にとって、慈しむ存在であったはずだ。だが、彼女はあっさりと殺されてしまった。読み始めてからわずか17ページで、すでに悲劇と死の臭いが付きまとう。


アウシュヴィッツからモノヴィッツに移送されるバスの中でも印象的な場面がある。移送されるレーヴィらに、ドイツ兵が丁寧な態度でお金や時計をくれるか聞いてまわるのである。組織の歯車として、ユダヤ人を死地に送り込むことには、なんら良心の呵責を感じないが、個人として金品を強奪するのには、良心の呵責を感じるのであろう。人間の複雑な一面が垣間見えるエピソードだ。


モノヴィッツに着いたレーヴィたちは、名前を含め、全ての物の所有が禁止される。与えられた縞模様のシャツとズボン、上着、木靴、飯盒、そして名前代わりの番号。それのみが彼らが手にする事のできる唯一のものだ。さらに収容所のなかはヨーロッパ各地から連行されたユダヤ人がひしめいており、言葉も通じない。意思疎通の手段さえも奪われる。


全てを奪われたとき人は初めて気づく。毎日の些細な習慣やこまごまとした物に、人は記憶の断片を宿し、その中に個人としてのアイデンティティを見出すのだと。言葉も、名前も、愛する人も、愛する人の記憶を宿した思い出の品も、全て奪われたとき、人はただ肉体的欲求を満たすだけの空っぽな人間に堕ちていく。そして抜け殻のような人間を見たとき、他者はその存在をとことん軽んじる事ができるのだ。レーヴィは一瞬にしてそう悟る。ここは地獄だ。役に立たなくなれば、いつでも処分できる空っぽの奴隷を作り出す壮大なシステムなのだ。


「囚人」生活の記述も目を疑うような事ばかりだ。例えば寝る時には、ベッドと上掛けを2人で共有しなければならない。それも相手は言葉さえ通じない赤の他人だ。食事はわずかな野菜が入ったスープとパンのみ。冬にはマイナス20度にもなる厳しい寒さの中、薄いシャツとズボン、その上に薄い上着を着用する事しか許されない。寒さのあまり、くすねたボロ紙を上着の中に詰め込んで少しでも保温性を高めようと努力する。だが、これは違反行為で見つかれば、激しく殴られる。


収容者の種類は3種類あり、おもに刑事犯、政治犯、そしてユダヤ人で構成されている。収容所の内部にSSの人間が立ち入る事は稀で、レーヴィたちを管理していたのはドイツ人刑事犯の棟長や労働を管理するカポーたちだ。彼らはユダヤ人をひとつ下の人間として見下し、呵責のない暴力を振るった。ナチスは閉鎖された空間で一部の囚人に特権を与える事で効率よく人々を管理していた。


ユダヤ人同士での生存競争も激しく、わずかでも隙を見せれば、スプーンでも飯盒でも食料でも服でも、とにかくあらゆるものが盗まれた。盗まれたものは商品として闇市で流通し、パンが貨幣として用いられていたという。


ユダヤ人たちも相互不信を募らせ、それを利用し力をつけた「名士」たちが支配する、盗品による市場経済を収容所内に構築していく。それは原始的で野蛮な生存競争の世界であり、レーヴィの言葉を借りれば「持つものには与え、持たないものからは奪え」という世界なのだ。


全てを奪われ空っぽになり、生きる意志をなくした末に、規則に従う道を選び、配給された物だけを食べる人々は3ヶ月もしないうちに、必ず死んでいくという。レーヴィは生き残る者と、すぐに死んでしまう者とを「溺れるものと救われるもの」という言葉で言い表す。従順ですぐに死んで行く者を収容所内では回教徒とも呼ぶ。


収容所の中核。名もない非人間のかたまりで、次々に更新されるが、中身はいつも同じで、ただ黙々と行進し働く。心の中の聖なる閃きはもう消えていて、本当に苦しむには心が空っぽすぎる。彼らを生者と呼ぶのはためらわれる。(中略)顔のない彼らが私の記憶には満ちあふれている。もし現代の悪をひとつのイメージに押しこめるとしたら、私は馴染み深いこの姿を選ぶだろう。頭をたれ、肩をすぼめ、顔にも目にも思考の影さえ読み取れない、やせこけた男。


人間をこのような姿に変えていくという点でドイツは完璧なまでに成功したといえるであろう。彼らが唱えた「醜いユダヤ人」の姿を、彼ら自身の手で創造したことになるのだ。


レーヴィは収容所内で起きた事象を細部まで分析し、人々が非人間的扱いを受ける環境でどのように行動し、どのような社会を作っていくのかという事を鋭い視点で記述している。人種、宗教、民族を理由に人々が他者を差別し迫害すれば、その行き着く先が、どれほどグロテスクな世界になりうるのかを、私たちに示しているのである。人種差別という火種が世界各地で再び燃え上がる兆しを見せる今だからこそ、多くの人に手にとってもらいたい一冊だ。


 










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