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『復讐者マレルバ 巨大マフィアに挑んだ男』 生きるために殺し続けた男。それは現代版の『罪と罰』なのか?



「マレルバ」とは雑草のことである。雑草こそが本書の主人公のアントニオ・ブラッソことジュゼッペ・グラッソネッリの少年時代のあだ名である。雑草の名から連想できると思うが、彼は生粋の不良少年だった。本書はイタリアのシチリア島出身である「雑草」の数奇な半生を綴った自伝である。


日本では無名といっていいジュゼッペ・グラッソネッリとはどのような男で、いかなる人生を歩んだのか。ジュゼッペ・グラッソネッリはシチリア島で労働者の息子として生を授かる。少年時代から悪ガキで手が付けられない子供であったという。10代の中ごろに、町の羊飼いの男が地中に埋めて隠していた大金と銃を盗んだことをきっかけに、ジュゼッペの人生は決定的な道をたどる。一瞬で父親の月収をはるかに超える大金と銃という力を手にした彼は、泥で汚れた長靴を履き、工場という小さな世界に生きる父親と同じ人生を送るなど真っ平だと決意する。余談だが羊飼いの男はジュゼッペが金を盗んだ為に何者かに殺されてしまう。この金は最初から犯罪がらみの金であったようだ。


その結果、ジュゼッペはスリルと金を追い求め、思春期の頃には強盗団の中心人物として数々の悪事を働き、ついにはお尋ね者として故郷を逃げ出す羽目になる。逃亡先のドイツではイカサマギャンブラーとして名を馳せ、夜の繁華街に繰り出してはカモを見つけ、身包みをはいでいた。あるレストランオーナーからは借金のかたとして店まで奪い取る。自らが店のオーナーに納まり堅気の収入源を得るなど、裕福な暮らしを送る。金のロレックスとブランド物のスーツを身につけポルシェの911を乗り回し、美女と熱い夜を過す。アウトロー版立身出世伝といった感じだ。法律上の都合から一時期は徴兵され軍務に服するも、ここでもそれなりの成功を収め、下士官にまで出世したという。本書の前半部分では生い立ちから20代くらいまでの華やかな人生端が綴られている。


だが、ここから著者の運命の歯車が狂い始める。著者がシチリアに一時帰国した際、親族の男達が集っていたバルに覆面をした男達が現れ、彼の家族を次々に射殺していく。たまたま襲撃の時に席を外していたジュゼッペは銃声を聞きつけ店に駆け戻る。そこで彼が眼にしたのは、祖父や伯父たちの変わり果てた姿だ。著者がどんな悪事を働いた時も常に味方になってくれた祖父の死に特に大きなショックを受けたという。襲撃者たちはジュゼッペを見つけ、彼をも殺そうと激しく銃撃を加えてくる。恐怖に震えながらひたすら逃げ回る著者の脚にも銃弾が食い込む。キズを負いながらも著者は運よく逃げ延びた。いったい誰がなぜ一族を襲撃したのか。


この襲撃の瞬間まで著者は何も知らなかったのだが、彼の一族は女性がらみの些細な出来事でイタリア4大マフィアのひとつ、コーザ・ノストラとトラブルを抱えていたという。最初の虐殺事件を皮切りにグラッソネッリのファミリーやその友人達が次々に殺され始める。メディアはマフィアの抗争と書きたてたが、グラッソネッリ家は断じてマフィアではなかったと著者は主張する。さらに著者にとって意外だったのは、被害者側であるはずのグラッソネッリ家の生き残りの男達を警察が逮捕し始めたのだ。実は父たちもコーザ・ノストラ側の人間を殺していたことを知りジュゼッペは愕然とする。


国とマフィア双方からお尋ね者となったジュゼッペはドイツに逃亡する。彼はドイツで復讐を決意し、ギャンブルで稼いだ大金を惜しげもなく武器購入へと回し、準備を進める。もっとも、巨大なマフィアとの抗争を決意するまで彼は幾度も心が揺らいでいる。中盤は愛した女性や友人達との繋がりを通して、いかに著者自身の心が揺らいだかを隠すことなく記している。


後半はマフィアとの抗争が描かれている。彼はシチリアでコーザ・ノストラに迫害されているファミリーと同盟を結び、結束して闘いを進める。この組織を「スティッダ」という。意味は「星」で元々はコーザ・ノストラを追放されたマフィアを呼ぶ隠語であったという。80年代後半から90年代にかけて行われたジュゼッペたちの同盟とコーザ・ノストラの抗争を報じていたマスコミが同盟側をスティッダと呼び始めそれが定着したのだという。マスコミはスティッダを第五のマフィアと呼び、血も涙も無い恐るべき男たちだと報じた。内実はそれほどのものでもなかったようだが、ジュゼッペはこのイメージを自らの戦略に折込み多くの成功を収める。


この抗争では300人以上が犠牲となる。コーザ・ノストラ側の下部組織のボスたちも幾人も殺されている。ジュゼッペはスティッダの創立者のひとりとなり、戦略の立案の中心的人物へと変貌していく。そして、何より同盟で一番のヒットマンとして無慈悲にターゲットを殺していく。殺し屋としての冷徹な一面と、死んでいく仲間やいつ裏切られるかもしれないという恐怖とで神経をすり減らしていく内面が克明に描かれていく。抗争中の緊迫感は経験者が語っているだけあり、皮膚がヒリヒリとするような感覚を覚える。


また暴力は振るわれる側の尊厳を踏みにじるだけでなく、振るう側の精神をも確実に蝕んでいく。暴力は自らに必ず帰ってくるブーメランだ。振るえば振るうほど自らの尊厳をも殺していくのである。暴力に関わる世界にいて無傷ですむものなど、決していないのだということが、本書を読んでいてもよくわかる。


結局、著者は27歳のときに逮捕され、終身刑となる。現在も服役中だ。死刑が廃止されているイタリアでは最高刑になる。彼がコーザ・ノストラ側に殺されなかったのには訳がある。この時、コーザ・ノストラ側は国とも戦争をしていたのである。つまり、スティッダ相手に全力で戦うことができなかったのだ。終盤は塀の中での自身の再生に焦点を当てている。小学校までしか卒業していない著者は逮捕時に、読み書きすらおぼつかなかった状態だったという。しかし刑務所の中で学ぶ事の大切さを悟り一念発起、塀の中で大学を卒業する。今も毎日、本を山のように読んでいる。哲学を学び、自らの人生を深く内省し、一連の抗争とはいったい何だったのかを考察しているのである。その過程で自らの自伝を書き上げた。このあたりは、さながらドストエフスキーの『罪と罰』でも読んでいるような気分にさせられる。それほど衝撃的な一冊だ。



 









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