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#1 「わたしは何者なのか?」を探す旅

私は中国の内モンゴル自治区で生まれた。横に長いこの地域の中で私の故郷は東北三省の黒龍江省に近いところにあり、みな東北話(ドンベイフゥア)という方言を話す。私が三歳半のときに家族は日本への移住を決め、母方の親戚たちと一緒に大阪で育った。

日本人のおばあちゃんは満蒙開拓団として旧満州エリアの東北地方に移ったあと、日本が戦争に負けて孤児になった。おばあちゃんのような人は中国残留孤児といって、2023年のいまはほとんど聞かなくなったものの、1980年代から90年代にかけて報道をにぎわしたらしい。

このおばあちゃんが中国人のおじいちゃんと結婚して、私のお母さんが生まれた。かつてのハーフ、今でいうダブルやミックスだが、中国で育った彼女には日本人のアイデンティティーはあまり感じられない。このお母さんと中国人のお父さんのあいだに私が生まれた。

私たち家族は家では中国語を話す。30代半ばで日本に移り住んだ両親は、新しい言葉を覚えることに苦労したそうだ。

私がもっとも得意な言語は日本語だ。大阪育ちでバリバリの関西弁を話す。最初に覚えた言葉は何かと聞かれたら北京語だが、中国人のように自由自在に操れるわけではないと答える。20代に入ってから、ドラマを見て勉強したり、中国に留学したりしながら母語を取り戻した。

そうやって、何度となく自分のことを紹介してきた。

こういう自己紹介にはもう慣れている。それでも、初めましての場では「王」(わん)の名字であいさつするより「幸美」(ゆきみ)の名前で紹介する方が楽だと感じるようになった。名字を伝えたら、いま書いたような会話が繰り広げられるに決まっている。自分の説明文は条件反射みたいに口から出るものの、毎回それなりに長いエピソードを話すことはやっぱり疲れてしまった。

中国人であることは私の一部であってすべてではない。歳を重ねるごとにそう感じるようになった。10代は自分のルーツを否定すること、隠すことに気力を使い、20代になってからルーツを認め、受け入れる努力をしてきた。30代は、それから離れたいと思うようになった。

「私は何者なのか?」という問いの答えを探すために、中国ルーツという変わることのない個性に真正面から向き合った。そしたらもっと多様で複雑なものが私を形作っているという事実に気づいたのだ。だから名字に紐づく自己紹介をして「中国ルーツ」「外国にルーツをもつ」という側面だけを切り取って見られることに苦しさを覚えるようになったのだと思う。

それでも、ずっと自分の中国アイデンティティーにまつわる体験について書きたかった。私の想いを文章にしたためることで、まだ少しぼんやりとした現在とは異なる地点に進めると感じているのかもしれない。

まずは、誰かのためというよりも、自分のために書き始めようと思う。

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