ロックが戦っている「大人」みたいなものってなんなんだろう
満員電車・・・そこには、サラリーマン的な悲哀があり、もう帰ってこない青春みたいなノスタルジーがある。大都会TOKIO、大企業そして社畜、ラッシュアワー、むやみに疲労した人々を詰め込む駅員、高度経済成長、文化の夜明け・・・満員電車という言葉だけで、我々は様々な情景を思い浮かべ、次々と感情が沸き、思い出が想起される。満員電車という言葉は、もはやハイクの高みにある。クールジャパンを象徴すべき言葉だ。
そんな、時代を超えてとにかくヘイトがすごい満員電車は、数々の歌に歌われてきた。しかし、みんなに歌われる歌を書くような芸術家に、一生満員電車に揺られなければならないような人々のいったい何がわかるというのだろう。そんなことが頭に浮かぶ程度には、自分も知らないうちに歳を取った。
とかく、満員電車というものは、なんだかよくわからないが「自由」みたいなものの敵である。したがって、うち滅ぼさなければならない。そう思って生きてきた結果、自分は永遠に迷路の人生を歩む結果となってしまっている。やはりロックは危険物なのだ。
■ 我々は今も満員電車で夕刊フジを愛している
昨今、さすがに電車の中で物理新聞を広げている人を見ることはすっかりなくなってしまった。その代わり、人々はスマホを眺めている。映像コンテンツを見ている人もいれば、SNSを眺めたり、ニュースサイトを見ていたりと中身は様々だ。全員の画面を覗くわけにはいかないので、実際のところみんなが何をしているのかは定かではないのだが、いったいどれぐらいの人がスポーツ新聞を眺めるより有益っぽい事をしているのだろう、と思う事がある。
ネットのニュースメディアやニュースアプリなどに詳しい人によると、一面にあたるトップ記事みたいなところに、芸能ニュースが出てこないものを探すのは極めて難しい事だという。テレビ番組を見て書かれたような芸能コタツ記事が多数生み出されるのは、それが現実に多くの人に読まれるからである。幸か不幸か、最近は電車がかつてのように満員になることも少なくなったが、スマホでゴシップ記事を読みながら老いぼれていくような人は実際のところ沢山いるんだろうな、などと思う。
自分は昔からあまり新聞を読まないほうだ。世間ではすっかりオールドメディアへの風当たりが強くなり、今時新聞なんて、という風潮も今や当たり前のこととなった。なんだったらすぐワイドショーみたいになってしまうマスメディアに良くないところがあるのは間違い無いように思うが、だからといって、より不確かなことが多そうなネットのよくわからない人々の声みたいなものを眺めながら、満員電車で消耗するのも、たいがいではないかという気もする。場合によっては、スポーツ新聞のほうがまだマシだったりするのかもしれない。
メディアがワイドショー化するのは、もちろん人々のワイドショー需要が根強いからである。自分の人生にほとんど関係ない有名人のゴシップをネタに、感情を載せてコミュニケーションをする事は多くの人にとって楽しい事なのだ。内容は本当でもウソでもいいし、不倫でも政治でも経済でも多分構わないのだろう。必要なのは、娯楽的に消費できる事だ。人々が娯楽にかける時間とカロリーを思うと、娯楽というものの強力さには改めて驚嘆するばかりである。
ワイドショー的喜怒哀楽みたいなものをついつい求めてしまうという、人間の性質みたいなものは、思えばそんなに年齢によって変わるものでもないように思う。そう考えると、満員電車でスポーツ新聞を読んでるサラリーマンにはなりたくない的なものは、誰でも多少は青春の心の風景として持っているものの、はなから達成が極めて難しい高い目標だったのかなとも最近は思う。
喜怒哀楽を伴ったコミュニケーションが、人間同士が付き合う上では非常に有効なツールであることは疑いようがないし、その恰好のネタを提供してくるワイドショー的なものは、実に汎用性の高いコンテンツなのだ。
■ 強力なビジネスツールであるワイドショー的娯楽
満員電車に揺られている人たちの多くはビジネスパーソンなわけだが、ビジネスシーンでも、そういうコミュニケーションに使えるネタとして、ゴシップは依然として有効だ。実際問題、日経テレ東大学について詳しいことがビジネスシーンで役に立つことは(比較的ライトなメディアであるにも関わらず)めったにないが、少なくとも今のところ、ガーシーの動向に通じていることが通用しないビジネスの現場はほとんどない。そういったことは多くのビジネスパーソンが経験的によく知っている。
共通点がよくわからない人と、本題以外の話をしようと思った場合、やはりライトな時事ネタ、つまり有名人のゴシップみたいなものはテッパンのトークテーマであり、もはやビジネスパーソンにとって必要不可欠な教養といってもあながち言い過ぎではない。
日頃disられがちなコタツ記事についても、この視点で考えると、テレビを視聴する時間を節約してクイックにゴシップトレンドをキャッチアップできるという意味では、実にナウ、つまり当世的である。働き方改革を余儀なくされ、膨大なコンテンツに囲まれ、昨日覚えた「可処分時間」みたいなわかったようなわからないようなナゾめいたワードを操ってみたい年頃のビジネスパーソンにとっては、必須のツールなのだろう。要するにこれもファスト化する社会の現われの一つなのだ。クイックにネタをインプットして、それを明日のビジネスに活かす。そういう日経新聞のCMを見たことがあるような気もしないではない。
つまり、満員電車の中でさえ、スポーツ新聞的ワイドショーメディアから情報をインプットして、次の商談や会食に備えるというのは、ある種のサラリーマン的勤勉さを示していることのようにも思えるのである。
自分の知る限り、ゴシップみたいなものを、くだらないと思っていない人はほとんどいない。しかし、デリケートかつ高尚な話題でオレツエーした結果、顧客とのリレーションが不穏になる危険を冒すぐらいなら、どうでもいい有名人の話などしておいたほうが穏当であろうと考えるのは、社会では実に常識的なことなのだ。リスク・コントロール。リスクをマネジメントできないやつは、このビジネスの荒野では即座に破滅し、いぬにも顧みられないあわれな最期をむかえる羽目になる。
そう考えると、満員電車で夕刊フジ的なムーブは、イケてるビジネスパーソンには必須であり、特に問題はない。そう思えるかもしれない。しかし、ここからが本題だ。
■ ビジネスマインド的なものと人間らしさ
やはり、考えておかないといけないのは、そうやって何かといえばビジネスの文脈に物事を回収していくような価値観についてだ。ちなみに、自分は相当毒されているタイプなので、おそらくもう手の施しようがない。しかし、これはdisられてしかるべきだ、と思うところはやはりあるものである。
人類社会は巨大なシステムとなっている。このシステムを安定的に稼働させるために、ビジネスのような仕組みは不可欠だ。人に頼みごとをする時に、いちいちそいつの気分を気にしていてはやってられない。そいつの生活の面倒も一から十まで見てはいられない。そこで、労働には対価があり、物やサービスの交換には貨幣みたいなものが用いられる。その結果、実に世界はスムースに動くようになっている。
ビジネスを円滑に「まわす」ことは、人類社会を動かし続ける上では今や必要不可欠だ。ただ、その結果、時には人の不幸みたいなものまで、ビジネスを飾る話題として消費されてしまう、といったことが起こる。それで盛り上がって商談は上手くいったりもするのかも知れない。だから良いのだろうか。巨大な機構を動かすために潤滑油は必要だ。そういうことなんだろうか。
人間らしさ、みたいなものを考えた場合、自分は、複雑で巨大な社会システムを構築して、その中で群れとして暮らすことができるという点が、なかなかほかの生き物にはない人類の特徴であって、まさしく人間らしさなんだろう、というように考えている。その中で暮らす人たちは、システムを安定稼働させ、保つために、多かれ少なかれ我慢をしなければならない。みんなが勝手なことをやり始めると社会は成り立たない。巨大な社会を動かすために、個体は多少の不都合や不幸を甘受する。時には、自分らしさみたいなものを抑えて、空気を優先させたり、求められた役割を演じたりする。そしてそれに息苦しさを感じたりもする。そういったものが、人間という種の特徴であり、人間らしさなのだろうと思っている。
しかし、世間で言われる人間らしさや人間味、というものは、そういったものではない。普通の人間らしさというのは、人間らしい温かみのことであったり、人間らしい欲望のことであったり、人間らしい怠惰さのことであったりするものだ。そう、ここでいう人間らしさは、家族や親しい友人といった四畳半スケールの社会で見られるような、素朴な情愛や感情といったもののことを指す。先に述べた非人間的な人間らしさを理性みたいに言うのなら、こちらの人間的な人間らしさは感情や心みたいなもののことだ。個人的には、こちらの人間らしさは、わりとほかの動物にもあったりしそうなものなので、敢えて動物とは異なる「人間」らしさの究極とは何かと問われると、トーキョーで消耗したりする生態のことなんじゃないかと思っている。
感情や心みたいな素朴な人間らしさ的なものは、マクロなスケールの社会では、なかなか持ち込むのが難しい場面がある。例えば、満員電車に心を持ち込むことはできない。誰だって、見知らぬ他人とぎゅうぎゅう詰めにされるのは気持ちがいいものではない。自然と機嫌も悪くなる。心を持って満員電車に乗ってはいけない。それはもめ事を招くものだ。
自分には、いつ聞いても「今日、電車で腹の立つマナーの悪い乗客がいた」と憤っている友人がいる。大変申し訳ないのだが、世間的に見てヤバめと判定されるのは友人氏の方である。もちろん、電車のような場所で求められるふるまいをしない人には問題があるのだが、それにいちいち憤慨することも、おそらく電車のような空間には相応しくないことにあたるだろう。
一方で、生活の全局面がビジネスマインドみたいなものに染まってしまっても、それはそれで良くないことが起こる。これは四畳半スケールで考えてみるととても簡単なことで、結婚して家庭を持ったことのある人なら、なおさらよくわかることであろう。四畳半スケールに過度に理屈みたいなものを持ち込むと、それはそれで無粋な感じがするし、なんなら相手に疎外感みたいなものを感じさせてしまったりもする。教科書的に言うと、公共空間と親密空間の対比、みたいな話なのかもしれない。
我々はこうした2種類の人間らしさ、みたいなものを使い分けて生活している。ビジネスのフィールドである会社みたいな組織においても、四畳半に近いような人間関係が生じることもある。ここで重要なのは、イザというときに自分を助けてくれるのは、四畳半の社会だということだ。人生には栄枯盛衰がつきものである。あらゆる人間関係がビジネスライクであると、いざというときに大変つらい目に会うことがある。調子のいい時に集まってきた人たちが、ちょっとした転落と同時に潮が引くように離れていくということは、多くのしくじり先生が語ってきたことだ。自分は例外だ、などと思っているようなウカツなことでは生きていけない。
そういう四畳半的人間関係を育んでいく上で、満員電車でくたびれている的な人生に甘んじることは、個人的な経験からいくとあまり良いことではない。心をどこかに置いておいて、ビジネスシーンにふさわしいムーブを続けることは、どこか人間味を欠いた、なんだったら人間性に問題のあるふるまいと評価されることもある。組織人であれば、合理的に設定された組織目標や、組織人として正解なふるまいみたいなものが多少はあるだろう。しかし、そうした正解めいたものは、システムそのものが崩壊したりルールが変わったりすると、途端にマイナスポイントになったりする可能性のある危険物であることを忘れてはいけない。
世の中は時々刻々と変化していく。そうした社会においてレジリエンスを高めるためには、うまくいかない時にも何とかなるようなスキル、マインドセット、そしてネットワークやコミュニティを持っておくことが重要である。世間的な評判ではなく、個性として誰かに求められる存在であるためには、現時点での正解とか、巷で良いとされていることとか、一般的に評価の高いこと、みたいなことだけをやっていてはいけない。あんまり理解できないけど、面白い。既存の軸では評価されないとしても流されない。そういう人は、何かしら信頼され、四畳半のスケールでユニークさを評価されるようになっていく。自分もそうありたいものだと思う。
そのとっかかりとして、満員電車で夕刊フジ的ライフスタイルに疑問を抱くようなことは、小さくても偉大な一歩だろう。決して、世間知らずなキッズ的ルサンチマンのように侮ってはいけないものだと思う。ロックのようなものが教えてくれるのは、そういったことだ。
迷路の人生も、どしゃ降りの1車線の人生よりは良いかも知れない。最近はそう思う。
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