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イエスは、戦うことも、逃げることも不可能な状況に追い込まれて、「愛するしかない」と言う第三の道を発見

メソポタミアの大都市ウル(中略)ウルは当時地球上で最も大きく、最も裕福で、最も国際的な都市だった(中略)現王朝の初代ウル・ナンムは世界で初めて正式な法律制度を作り、二代目の王となった息子のシュルギは、読み書きができるだけでなく───当時の統治者には珍しいことだった───書記の学校のカリキュラムを改定し、道路を造り、世界初の宿屋を旅人に提供した。さらにシュルギには、遠方の国々からエキゾチックな動物を集めて世界初の動物園を造ったという功績もあったのだ(中略)イスラエル人の伝説上の父親アブラハムは、だいたいこの時代にウルの自宅に家族を残して、新天地カナンへ旅だったらしい。

カナン人はアルファベットを、その縁者で海岸に住むフェニキア人はガラスを発明した。

(※BC1250年エジプトからの移民)モーセは(イスラエル=パレスチナ=カナンに)たどり着く直前に、ヨルダン川の東岸で、遠く向こうの緑豊かな土地があることを発見して死んだ。それが、神「ヤハウェ」が自分たちに約束した地(プロミスド・ランド promised land)(中略)消えた10支族」は、ユダヤ教を捨てて、元のエジプトの植民者の宗教に戻っただけ(中略)(※バビロンに居残ったダニエルとエゼキエルによる)預言者の書(中略)優れたユダヤ人の商才で富んで栄えますよ、ということを豪華に描いている書(中略)ムハンマド(※632年マホメッド62歳)はエルサレムに来ていない。死んだのはメディナだ。それなのに、「エルサレムはイスラム教徒の聖地でもある」と彼ら(※イスラム教徒は)言い出した。これにユダヤ人たちが怒っている(中略)(イエスの死から600年後にできた)イスラム教は、ユダヤ教とキリスト教の真似だ。尊敬していたからこそものすごく真似てしまった(中略)(※ユダヤ教の聖地に)2500年も後になってから勝手に、そこにイスラム教徒がモスクを建てたのはやっぱりまずい、と私は思う(中略)ムハンマドたちは、初めはエルサレムの神殿の丘に向かって拝んでいた。624年(54歳のとき)に、ムハンマド自身が、「以後は、メッカのカーバ神殿(ここには黒い隕石が置かれていた)を拝む」と決めた。それまではエルサレムを拝んでいた(中略)BC)1200年頃から、モーセの後継者のヨシュアが、ヨルダン川を西に超えて、イスラエル=パレスチナの地に入り、まずエリコの都市を攻撃する。そこには先に移ってきて、住み着いたペリシテ人たちがいた。同じエジプトからの移民だ。どうしてヨシュアたちが町々を次々と攻撃し、占領しなければいけなかったのか。その理由の説明は『旧訳聖書』(モーセ5書)には一切ない。このあと、200年間ずっと、ユダヤ人はこの一帯(エズレル平原あるいは渓谷)で戦争に次ぐ戦争をする。これが「士師(シェパード)の時代」(中略)エリコは古代都市であり、さらに3000年ぐらいさかのぼる(中略)ヨシュアからあと12人の士師(民衆の指導者)たちの話が「士師記」に書かれている。士師とは、シェパード shepherd のことであり、「羊の群れを導く者」という意味で、遊牧民(ノウマド)を率いる族長(中略)『旧訳聖書』(モーセ5書)は、紀元後(AD)200年頃から300年代末にかけてエルサレム辺りで成立(中略)『旧訳聖書』の成立は、『新訳聖書』がローマでギリシア語で書かれたAD60年よりも、さらに100年以上あとだ。AD220年頃に、まず「ミシュナ」(口伝律法)が、そして390年頃に、「口伝タルムードが、ラビたちによって、エルサレムで本として編まれた(中略)このタルムード(戒律集)が書かれたその時に、実は、『旧訳聖書』(モーセ5書)本体も編まれたのではないか(中略)こう考えないと、あれこれ理屈が合わない(中略)BC1250年(今から3200年前)のモーセ、ヨシュアからの言い伝え、言行の口伝えはずっと残っていただろう。しかし、それらが聖典(啓典)の形でまとめられたのは、実にその1400年後のAD200年(代)(中略)だから、モーセ5書には、イエス伝(新訳聖書)の影響もあちこち出ているし、他のもっと大きな民族や、帝国の制度や宗教(呪術)などからの借り物がたくさん集められている。『旧訳聖書』の「創世記」の各所に「ユーフラテス川の向こうの大王」即ち、ハンムラビ王の逸話が出てくる(中略)旧訳聖書』はヘブライ語からギリシア語に翻訳された」というのはウソ(中略)ヘブライ語(アルファベット文字だ)ができたのは、紀元後200年ぐらい(中略)つまり、「新訳」(イエスという男の物語)も、「旧訳」も、初めからギリシア語で書かれたのである。イエスが(BC6年生まれ。AD30年に処刑された。36歳で死去)時代は、古代ローマ帝国が覇権国(へジェモニック・ステイト)である。イスラエル=パレスチナ=カナーンの地は、当時は、ローマ人に支配されていて、ローマ軍が駐屯した。上級のローマ人や、ローマ軍人たちは、ギリシア語で文章を書いたのだ。イエスも上級の人間であったから、一般的だったアラム語(古シリア語、シリアック)の他に、ギリシア語も話し、書いた。北のナザレ(このそばのツポリにローマ軍の司令部があった)生まれのイエスは、ただの貧しい大工の子ではなく、それなりに立派な家の子だったのだ。それなりの学識と教養がなければ周りの人たちが教えを聞かない。イエスは、金持ちや役人(村長)の家に招かれたときは、ギリシア語で話している(中略)アラム語と古シリア語は同じだ。やはり、今のシリアにいた人々が中東全体のコトバの作り手の中心(中略)フェニキア文字がアルファベット(都市ウガリドで出来た)の元祖(中略)ヒッタイト帝国を滅ぼした「海の民」 ハンムラビ王から400年ぐらいの紀元前1300年ぐらいに、エジプト帝国(ラムセス2世)は、ヒッタイト帝国(※首都はトルコの真ん中くらい)の皇帝(ハットゥシリ3世)と戦っている(中略)100年が経ち、紀元前12世紀(正確には、BC1190年)に、それまで、エジプトとずっと戦っていたヒッタイト帝国が、なんと一気に滅びた。「海の民」という人たちが、滅ぼしたことになっている(中略)おそらく、「海の民」とはフェニキア人(中略)フェニキア人(海の民)は、地中海岸を中心に広がっていった。そして、のちにカルタゴやヴェネチアまでつくった。繰り返し書くが、このフェニキア人は、今の人口約400万人の小さな国レバノン(首都ベイルート)人であろう(中略) 古代帝国の知識人層は、ギリシア語で文章を書き続けた。だから『新訳聖書』(イエスの物語)も『旧訳聖書』(モーセ5書)も、最初からギリシア語で書かれたのだ(中略)AD490年に出来た「バビロン・タルムード」※引用者加筆.

『民数記』───残酷な戦争史(中略)約束の地カナンに向かって民が砂漠をさまよっている途中、いくたびもほかの民族と戦争する。神の力のお陰でイスラエルの民は勝ち続けた(中略)モーセは約束の地カナンに入ることを神に許されなかったため、「モーセ五書」は約束の地カナンの占領の手前で終わっている(中略)イスラム教の聖典である『コーラン』には、実はイエスが「イーサー」という名前で登場する(中略)また、最後の日にイーサーが再びこの世に現れるという「復活」を予言する教えもキリスト教と同じだ(中略)当時のクリスチャンたちは、まだユダヤ教の一派だと思われていた。何しろイエス自身が生涯、ユダヤ教徒だったのだ。だから、当時のキリスト教徒たちは、自分たちのことを「ユダヤ教徒と違う」とは思っていなかったはずである。他のユダヤ教徒からは、過激な「ユダヤ教の新興宗教」くらいに思われていたのだろうが、彼らは「イエスこそがユダヤ教のメシア(救世主)、我々はユダヤの救世軍」という自意識を持っていたと想像される(中略)私のひねくれた考えにすぎないかもしれないが、イエスの言う「愛」も一種の転位行動に見えなくもない。イエスは、戦うことも、逃げることも不可能な状況に追い込まれて、「愛するしかない」と言う第三の道を発見したのではないだろうか。

どのクラスにもいけにえの山羊のような子がいる(中略)スケープゴートという概念は、ユダヤ人特有のものではなかった。古代ギリシャには、独自のスケープゴートの儀式があった。ただし、犠牲になるのは動物ではなく人間だった(中略)矛先を向けられたものは、すべての敵の代理となる。反撃できない者。スケープゴートである(中略)パリサイ人は暴力を非難し、律法を厳守した。自分たちが古代に生きていたら、預言者を殺害しなかっただろうと主張した。そして、彼らはイエスの殺害に協力したのである(中略)カヤパは一世紀のユダヤ教の大司教(中略)イエスがエルサレムで捕まったとき、カヤパは祭司や宗教・政治の評議会と秘密裏に会合を開いた。彼らはナザレから来た男をどうするか決めなければならなかった(中略)イエスはどこからともなく辺境の地からあらわれ、社会のすみで生き、文化規範を破り、権威の力に挑んでいた(中略)カヤパは自分の計画がスケープゴート・メカニズムを利用したものだとは思っていなかったはずだ。それでも、影響力を持つ象徴に目標を定めた暴力が、荒れる群衆を鎮めるのに役立つと知っていたに違いない。イエスを殺せば人々は満足し、それで団結して、危機がエスカレートするのを防げるだろう。カヤパの意見は支持を得た。それで数日のうちにイエスは十字架に磔にされた。

イエス・キリストはユダヤ教の中の「エッセネ派」と呼ばれる清廉で厳格な宗派(セクト)に属していたとされる。エッセネ派は、ユダヤ教の中でも腐敗の少ない、純粋で清貧を実践する宗派であったらしい。この古代ユダヤ教の一派であるエッセネ派は、出家を奨励しており、「志のある立派な男は35歳になったら家族と家を捨てて、愛欲(現世の諸欲望)を断って出家せよ。岩石砂漠のようなところの洞穴を掘ってそこでもっぱら瞑想にふける厳しい修行生活をせよ」という宗派であったらしい。彼らの姿をアラビア砂漠のベドウィン(隊商の遊牧民)たちが通りすがりに見てやがて尊敬した。ここからイスラム教が生まれた(622年創立)。当時は子供も15歳で十分大人だから、35歳ぐらいになれば、子供も自分の力で生きてゆけるから、家族と離れて出家しても家族は困らない。だからエッセネ派はそのように考えたのだろう。極めて合理的な判断だ(中略)ニーチェは、憎悪と呼べるほどにキリスト教を批判する。ドイツの牧師の息子として生まれたのに、ローマ・カトリック教会とドイツのプロテスタント教会のすべてを嫌った。しかしイエスという人間は尊敬していた。同じくマルティン・ルターの生き方も尊敬していた。ニーチェの考えでは、キリスト教は本来もっていた素朴な信仰の立場から遥かに遠ざかった。あまりに長い間、腐敗した経営を営んで来たキリスト教会は、とうの昔にイエスその人の教えから遠く離れていた。

情報分析官

新訳聖書によれば、イエス・キリストが人々に見せた最初の「奇跡」は、カナンの地で催された婚礼の席で水をぶどう酒に変えたというものだ(中略)カナンの奇跡について言えば、結婚式の主催者が、地下室で長く忘れられていたぶどう酒のびんを見つけたのかもしれない。

情報分析官

キリスト教などの聖書に、目の見えなかった人の目を見えるようにした、という奇跡が出てきます。これはおそらく古代において、キリストかそれに準じる聖職者が、実際にカウチング法で施術して、目を見えるようにした奇跡なのでしょう。ただし、あとになって、落とした水晶体が悪さをして、炎症がひどくなって、多くは失明したのではないかと想像します。キリストの時代でのカウチング法は、針ではなく石で、目のやや外の骨を強打して、振動を与えて水晶体を落とすという方法もありました(中略)日本でも、室町時代にインドや中国から伝わり、江戸時代ぐらいまでは、目に針を刺して水晶体を奥に落とすこのカウチング法が行われていました。○○流の秘術、などという仰々しい名前で行われていたのです(中略)このカウチング法は、伝統的な術式であり、現代でも行なっている地域があります。

ブッダ、イエス・キリスト、リース・ウィザースプーン〔人生の再出発のためにロングトレイルを踏破する女性を描いたアメリカ映画『わたしに会うまでの1600キロ』の主演女優〕はみな、知恵を探しもとめて荒野に向かった。

今も昔も、本当のことを言えば「本当のことを言うな」と言われ、台本を書いて丁寧に役を演じれば「嘘をつくな」と言われる。だとすれば、タダで台本を書き、役を演じるためにエネルギーと頭脳資源と貴重な時間を使うくらいなら、本当のことを言ったほうがいい。これは無償の場合に限った話だが、もちろん好意を持たれているとか、お金をもらっているとか、グラデーション(階調)で違いはある。オセロでは、最初の4手までが重要だ。

関連リンク↓

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https://note.com/wandering_1234/n/nc4b568841e27

https://note.com/wandering_1234/n/n5aa0fad788c0

https://note.com/wandering_1234/n/nba7dcf1f8237


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