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伊能忠敬は生来、頑強な体とずば抜けた知能をしていた。そしてその正体はまさしく公儀隠密(忍者)

免疫を高める薬があるとしたら、それは漢方に近いものかもしれません(中略)それ以前に免疫を高めるのは、先の章で挙げてきたような食生活、生活習慣で十分にできます。正直なところ無理に薬を使う必要はないのです(中略)飛脚が一日200km進み江戸から京都まで2日半で移動した(中略)江戸時代の食事や生活スタイルは、現代の腸内環境改善においても参考になる部分が多いのです(中略)冷やご飯には制御性T細胞を増やす驚くべき効果(中略)昔は冷えたご飯もよく食べられ、江戸時代の庶民は朝に炊いた米をおひつに移し1日かけて食べていました(中略)この昔ながらの冷えたご飯が制御性免疫をつくるうえではとても都合がよかったというのは、なんとも興味深い話です

脳は関連のない事柄を学習して記憶するようにはできていない。物事をグループ化して、一つの〝連合記憶〟にするのだ(中略)レオナルド・ダ・ヴィンチはこの原理に気づき、『絵画論』に書いている。〝すべてのパーツは・・・・・全体と対応していなければならない・・・・・

イタリアの政治思想家ニッコロ・マキャベリは、はるか昔の1527年に著書『君主論』でこう述べている。「民衆は君主を外見だけで判断する。君主に直接会える者はほんの少数に限られ、その少数の者は、国の庇護を求めて為政者を推し戴く多数派の意見に逆らおうとしない」。マキャベリは、君主に不可欠なのは、立派な服装をして人徳者に見えるようにすることとはっきり述べているのだ(中略)初期のイエズス会士はマキャベリが主張する外見のよさに注目したが、評判のよさも彼らの成功には重要であると確信した。

人類の心は、マキャベリ流のしっぺ返し戦略を行うよう進化のプロセスによって形作られてきたのかもしれない。そして、偽善や自己正当化、道徳的葛藤に陥りやすい認知過程を身につけたようである。しかし時には、心の構造や戦略を知ることにより、私たちは、社会的操作という古代からのゲームを抜け出して、自分たちが選択したゲームに参加することができるだろう。

マキャベリは、1469年にフィレンツェの法律家の子として生まれました。その後、29歳でフィレンツェの現代でいう外交官に抜擢された彼は、さまざまな国との交渉を経験したことで、「世の中というのものは熱意や道徳だけでは、決して解決しない問題がある」という現実を知ることになります(中略)そのため、彼の思想は反道徳的であるとしても非難を浴びますが、一方でその才を高く評価していた人物もいます。そのひとりが、かのレオナルド・ダ・ヴィンチです。実は2人には親交があり、1503年には共同で水路開発事業にも取り組んでいます。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、プロ並みのビオラ・ダ・ブラッチョ「バイオリン属の楽器」の演奏家であった(中略)レオナルドの疑問は、都市計画から水力学、描画、弓術および軍事作戦、天文学、数学、果てはアイススケートまで、広い範囲に及ぶ。このうちのどれだけの学問を、レオナルドは学校で学んだのだろうか? 答えはゼロである。なぜならレオナルドは、非嫡出子として生まれたので、当時受けられた唯一の正式教育システム、ローマ・カトリック教会の教育システムに受け入れてもらえなかったためだ。彼は当時学校で教えられていたラテン語もギリシャ語も、教育を受けたことがない

要は本人に好奇心があるかどうかです。好奇心というのも、学校教育でかなり摘み取られています(中略)学校で洗脳されます(中略)だから学校教育で、好奇心を骨抜きにされている人が多いのです(中略)特別な人たちというのは、表の世界では飛脚で裏の世界では忍者です。特殊技能であるナンバ走りができるのだから、それは高給が稼げたはずです(中略)特殊技能はお金になる(中略)そして特殊技能ですから、簡単に他人には教えません。秘伝ですから。今も特許ともいうらしいのですが。だから、誰にも教えません(中略)江戸時代の長者番付を見ると、飛脚はかなり上の方にランクされている(中略)忍者の服部半蔵は、いまだに東京で半蔵門という名を残している(中略)(※ウサイン・)ボルトの走りも「ナンバ走り」(中略)このことはフィギュアスケートでも同じこと(中略)武士は素早く力強く動いても、着物が着崩れないように動いていました(中略)ナンバ歩きで歩いても、ほとんど誰も気づかなくなります(中略)難しいことに取り組むのを楽しめるかどうかで、人生はどうにでも変わってきます。※引用者加筆.

特殊技能・ナンバ走りを身につけていたのは、公の職業では飛脚で、影では忍者

足先が転子と連動して、転子を強く形成しなければ、フォアフット走法にならない(中略)フォアフット走法は江戸時代では当たり前(中略)典型的な例でいえば、江戸時代の飛脚、駕籠かきで、走ることが職業の人たちです。浮世絵や幕末の写真を分析してみると、この人たちの中にとんでもないフォアフット走法の達人がいたことがわかります(中略)戦闘者として鍛えられた武士は当然のようにフォアフットが使えました

伊能忠敬(※享年74歳)は「凄い高齢者」のお手本(中略)(※伊能忠敬は)江戸で当時の暦学の第一人者の高橋至時に師事し暦学を学びます。当時、高橋は伊能よりも19歳年下の31歳(中略)50歳のときに師事した19歳年下の暦学者高橋至時に対して、終生、弟子として師を敬い、教えを乞う姿勢を崩さなかったとされています。師である高橋は伊能の死の14年前に亡くなりますが、伊能は師への恩を忘れることはありませんでした ※引用者加筆.

三万両(※現在では数十億円相当)を持つ大資産家である(※伊能)忠敬は、高橋至時に経済的な援助を積極的におこない、惜しげもなく大金を注ぎ込んで深川黒江町の自宅に、間重富に頼んだ象限儀、圭表儀、望遠鏡、コンパス、垂揺球儀、子午線儀、など高価な天文器械と測量器械を次々と購入して、幕府の天文方にも匹敵する観測機器を設置し、太陽の高度を測り、星座を観測し続け、向こう三年間の暦を算出してみた。そしてこの頃、緯度一度の正確な数字を知りたいと難問に取り組んで、議論していた高橋至時と間重富のあいだに伊能忠敬が分け入って、その実測をどうしても自分にやらせて欲しいと頼みこんできた。しかも費用はすべて自腹を切るという。高橋至時と間重富は、伊能忠敬の学力では到底無理だとあきらめるように言ったが、どうも野心を秘めているような忠敬が強引に頼みこんでくるので根負けして、試験的な測量をやらせてみることにした。そこで二人が、距離の測量をおこなうための基本を一から教え直して、器具まで入念な準備を整えた上で、坂道や曲がり道では、それらをどう使いこなすか、正確な測量の方法を徹底的に指導した(中略)天文台は、一七八二年に浅草片町裏(台東区浅草橋三丁目)に設置された幕府の暦局(通称・司天台・天文屋敷)であった。葛飾北斎の「富嶽百景・鳥越の不二」にその姿が書かれ、富士山を背景にして大きな天体観測機械の渾天儀が見える図として知られている。忠敬はこの暦局天文台に通って、師二人から天文・暦法・測量を学び、それらを応用して理解できるよう、日中には太陽を観測し、夜には北極星などの恒星が子午線を通り過ぎる高度やその時刻を測定し続けた(中略)江戸に戻った忠敬は、丸二ヶ月間、門弟と新しい内妻の協力を得て、昼夜を問わず紙の上に地図を描く作業を続けた。この四人目の妻(内妻)大崎エイ(栄)は、謎の多い人であった。本書に登場するのはほとんど男だが、忠敬の測量助手となった長女・伊能妙薫(イネ)と共に大崎エイは珍しい存在の女性で、最近の調査で、彼女は象限儀を扱うことができ、当時の諸家人名録にも掲載されていたかなり有名な漢学者の才女だったことが判明している。※引用者加筆.

忠敬は生来、頑強な体とずば抜けた知能をしていた。そしてその正体はまさしく公儀隠密(忍者)である(中略)通説では、忠敬は天文方の新たなトップになったばかりの高橋至時に懇願し、弟子入りを許された(50歳、1775年)とされている。が、真実は幕命によるものだ。

上述の理由から、私は私の妹の3人の娘(3人の姪)に4歳からフィギュアスケートを習わせている。海外では当たり前のことだが、子供のいない人は兄妹の子供を助けることで自分の遺伝子を残す。私もそんな理由でスケート教室に月謝を払っていた(大変なのは送迎)。上の姪が高校生になり、親類の協力も得られるようになった今、私は良い本を選び、届けることだけに力を注いでいる(知らないものは検索エンジンで調べることができない)。4歳からスケートを習うと、スケートは上手になりますが、病気や難病の人を治せるかどうかはわかりません。しかし、良い人生を送るためには、早くスケートを習わせた方が良いと私は考えている。

関連リンク↓

https://note.com/wandering_1234/n/n60d3b2a91586

https://note.com/wandering_1234/n/nd16a70f26bf6

https://note.com/wandering_1234/n/na1f843717d16


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