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セロトニンとは無関係だと考えられてきた。しかし2019年に、迷走神経経由で関わりがあることが突き止められた

興味深いのは、体内のセロトニンの90%〜95%が胃腸の中にあることだ。胃腸のセロトニンは長らく、血液脳関門を通り抜けられず脳のセロトニンとは無関係だと考えられてきた。しかし2019年に、迷走神経経由で関わりがあることが突き止められた。

骨盤内の神経は、膀胱や性器の感覚・運動に関わっている。

重要な腸ですから、たとえば病気でなどで切除手術をするといった場合には、じつはそれなりに高いリスクを追っているということになります。これをきちんと理解している医師は、迷走神経などをしっかりと残して手術してくれる。そうすればラットの例のように感情に異常をきたすことなく、普通の生活に戻れるのです。ところが、そうした配慮をすることなく手術をすると、人が変わったのではないかと思うくらい性格が変わってしまう(中略)感動的な場面に出会ってもホルモンが出ず、あまり感動できないといった事態も起こりえます。

この神経の名称vagus(ヴァガス)は「放浪者」を意味するラテン語に因んで名づけられた。英語のヴァガボンド(放浪者)とヴェイグラント(浮浪者)も語源は同じである。

ホーボーって知ってる?(中略)ホーボーていうのはバガボンドのことですね(中略)「ヴァガス」という名は「ヴァガボンド」、つまり流れ者、さすらい人、タイムトラベラーと同じ由来だ

基本的に、技術(腕前)以外で勝負の差というのは、刀の長さです(中略)それはなぜかと言えば、長いからです(中略)とにかく相手に先に届いたほうが勝ち

宮本武蔵に関しては、いろいろ言われています。簡単に私が彼の略歴だけ言います。彼は1600年の関ヶ原の戦いには、東軍の黒田勢に足軽の雇われ兵で行っていて、大体20歳前(中略)関ヶ原の戦いから15年後(中略)武蔵は今度は豊臣方で、ここにも雇われ兵で入っている。でも機を見るに敏の人だから、危ないと思ったら、お金だけもらって夜中に大坂城から逃げた人だと思う(中略)平和な時代になった1642年ぐらいに、いわゆる巌流島の決闘をした。このあと今の北九州の小倉藩(小笠原藩)に雇われて、その後、熊本藩の細川家に雇われた(中略)武蔵は剣術で勝つことだけを考えていたわけではありません。武蔵の全盛期は、槍の吉岡一門との決闘です。このときも、吉岡一門の70余命を一人で全部殺したわけではない。敵の大将の首を取れば勝ちということで、吉岡又七郎の首を取って逃げた。後ろから近寄って行って、薮の中から出て、又七郎の首を取って、またさっさと逃げてしまう。俗説ですが、これは剣術ではありません。兵法家(中略)巌流島は、今の下関海峡を西側に出たところにある小島で、砂浜がずっとあった。その決闘の日は、小笠原小倉藩の奉行たちが天幕を敷いて、真ん中で行司みたいにして、目撃しているというか監視していた。時間の待ち合わせして果し合いをした。「遅いぞ、武蔵」と言った佐々木小次郎という人は、長い剣を持っていた(中略)佐々木小次郎は、「ツバメ返し」で有名な人です。小舟で乗りつけた宮本武蔵は、とっさに考えたのか分かりませんが、その船にあった櫂を木刀がわりに持っていって、ワァーっと走り込んでいって、頭ごなしに佐々木小次郎を一瞬で叩き潰したのだろう(中略)剣術家のルールも何もない。実践だけがすべての戦闘家(中略)武蔵がなぜ自分の刀を使わずに櫂を使ったかというと、佐々木小次郎は、二尺七寸を使っています。武蔵の刀が二尺三寸五分とすれば(武蔵は二刀流ですから、もっと短い)、小次郎は三寸五分も長いものを使っていた。ということは10センチ以上長い刀(中略)ただし、二尺七寸の長い刀となると普通では抜けないのです。佐々木小次郎の身長が幾つあったかちょっと分かりませんが(中略)背が高かった(中略)それでもに二尺七寸は抜けないと思う(中略)刀を抜くというのは、自分の手で刀を帯刀した刀を抜こうとしたとき、自分の片腕の長さプラス身幅以上の長さの方は抜けないんですね(中略)小次郎は背中に刀を背負っていて、どいう抜き方をしたか知りませんが、別な抜き方をしている(中略)武蔵は佐々木小次郎が二尺七寸の刀を使うことを情報として知っています。そうすると、自分の刀は、小次郎の刀より短いので自分のほうの間合いが取れない。相手の間合いに入ってから自分の間合いに入っていくと、絶対に不利になる。だから刀を捨ててより長い櫂を使った。武蔵は並みの剣術家ではないから、相手に一撃を与えればもうそれで勝負は終わると。それで、櫂の先っぽを刀のように斜めに加工した(中略)喉仏に入れば。しかも先を尖らせておけば、それで一発で致命傷に(中略)何か削っていたみたいですね、船の中で(中略)例えば木刀の類でも先を尖らせて、ある程度、刀みたいにして、頸動脈を斬っただけで相手は、ほぼ致命傷です。ばっさり首を落とすような致命傷ではなくて、頚動脈や眉間を斬ることで相手に致命傷を与えた(中略)「宮本武蔵は一生涯に60数回試合をして、一度も負けなかった」と言われているのは、実践的な兵法家としてすごかったということ(中略)武蔵は1654年に死んでいます。最後の5年間は熊本の細川藩の客分で、剣術指南役(中略)その前、1637年の島原の乱に老骨に鞭打って馬に乗って出兵しています。原城に2万人ぐらいが立て籠もっていた。そのとき、女のキリシタンが原城の上から投げ落とした石に武蔵は当たって馬から転げ落ちて怪我した

宮本武蔵が晩年になって細川家に身を寄せていた

龍安寺(引用者撮影)

大雲山龍安寺は足利将軍時代、官僚職にあった細川勝元が徳大寺公の山荘を譲り受け、妙心寺第五世の義天玄承禅師を迎えて宝徳二(一四五〇)年に創建したお寺です。創建後間もなく応仁の乱によって消失してしまいますが、細川勝元の子・政元によって再考(中略)一休さんで知られる大徳寺の塔頭・高桐院(中略)かつて一休さんが住職を務められ、納豆などで有名な臨済宗大徳寺派の大本山大徳寺(中略)高桐院は細川忠興(三斎)が父・細川幽斎の菩提を弔うために慶長六(一六〇一)年に建立した塔頭です。細川忠興は織田・豊臣・徳川の三つの時代を生きた戦国時代きっての智将として有名ですね。忠興はまた、利休七哲の一人として茶道の奥義を極め、文武両道に秀でた人(中略)ちなみに正室はガラシャ夫人です。墓所には幽斎・三斎・ガラシャが眠っています(中略)お庭には灯籠がぽつんと一基だけ置かれています。この灯籠は三斎とガラシャ夫人の墓石を模したもの(中略)書院の「意北軒」は千利休の屋敷を移築したもので、装飾がなく、落ちついた雰囲気に(中略)地蔵院も他の多くのお寺にように、応仁の乱によって消失してしまいました。しかし、皇室と細川家の援助によって復興し、明治時代になってから、竜済寺と延慶寺を合併して現在のようになっています。細川家と縁の深いお寺なので、細川家の子孫にあたる細川護熙元首相の筆による「瀟湘八景の図」(襖絵)が奉納されています。

『言継 卿記』に光秀の名も出てくる。足軽衆から幕府直勤の奉公衆に出世していたのである」と書いてある(中略)「光秀が藤孝に仕える軽輩(足軽と小物の中間である中間(ちゅうげん))の家臣だったという事実は、今までの定説にはない話だ。そのわけは、細川家がある意図のもとに徹底してそれを封印してきたからだ。前述した細川家の家記である『綿考輯録』の記述が何よりの(偽造の)証拠である」とある。明智本によるここでの証明作業は、重要(中略)『明智軍記』が史実ねじ曲げの本(中略)藤孝と明智は終始一貫して主従であり、将軍義昭、信長に仕える前からの主従であり、一心同体(中略)光秀は、藤孝に仕える前に、朝倉義景(越前、福井県)に仕えている。光秀の明智氏は土岐市の支旗(傍流)であり、光秀は明智光綱の子とされる。土岐市が滅亡した(1552年)あと残党は朝倉氏に仕えた。土岐(とき)氏は「ひじきし」と呼ばれていた(中略)清正は、1600年の関ヶ原合戦には参加していない。肥後(熊本)から動かなかった(中略)だから清正が死んだあとは、息子貞泰が上手に跡を継ぐことができなかった。だからワルの細川家が以後、代々熊本藩主を乗っ取って継いだ。同じくワル(策士、軍師)の黒田官兵衛(如水)とその息子の長政が北どなりの福岡藩主(筑前の国主)となった。同じく池田恒興と長男光政が長久手の戦(1584年)で戦死したので、光政が、備前岡山藩主に(中略)細川藤孝と息子の忠興も隠れキリシタン大名であり相当のワルである。自分の長年の家来だった光秀を見殺しにして、自分たちは生き残った(中略)細川家は肥後熊本藩の54万石の国主として続いた。 信長の爆殺死を知った(備中高松で)秀吉に対して、「これで殿の思い通りになりましたな」と吐いたという黒田官兵衛(如水)が相当のワルであることは当然だ。黒田家は息子の長政(この人もキリシタン大名)が筑前52万石の福岡城主になって代々続いた。軍師(本当は軍配師という風水師)(中略)同じく隠れキリシタン大名の池田輝政の池田氏が備中備後をもらって今の岡山県を支配 ※引用者加筆.

私は20年ほど前まで、染色体欠損者や色に馴染みのない人たちに、主に化学染料、時には漢方の染料を使って染色、着色を教えていた(染色部屋と染色専用のバスタブを持っていた)。染色をやめてしばらくして(20年近く前)、日本の染色家の大家である吉岡さんと直接話す機会があり、約1時間、当時の話(足利将軍家、豊臣秀吉勢の剣術指南役だった先代の話)や藍の種の話、「本気でやるなら、種から藍を育てたほうがいい」とアドバイスして頂いた(ありがたいことでした)。染めや色付けは、超集中力を養う最高のトレーニングだと私は思う。なぜなら、それに没頭していると、時間の感覚がまったくなくなるからだ。ただし、染色体に関する問題に取り組む際には邪魔が入りやすく、福島原発事故後はそれが加速しているため、染色体問題を抱える人は自力で取り組むしかないと私は考えている。話は変わるが、以前、私のホームページをよく見てくれていたオーナーが経営するバーのカウンターで、漫画の主人公の末裔の方と隣り合わせになったという気まずい思い出がある。現代の刀はゴルフクラブを指すようだ。オーガニック・グループが行っている邪魔の対応とはいえ、私にも常識的な懸念は常にある。

関連リンク↓

https://note.com/wandering_1234/n/nf2ab9f735032


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