【日本語訳】鶯から燕へ、神宮を目指すー徐翔聖「17」と共にする楽観的な野球人生
自己紹介
はじめまして、いぬと申します🐶
昨年秋にヤクルトスワローズの存在を知り、野球に触れ始めたばかりの初心者ファンです。
2024年シーズンからヤクルトの情報を追う中で翔聖選手を知り、初めて現役の野球選手の応燕をするようになりました。そして彼のことを調べていく中で素敵な記事を見つけたので、多くの日本のちなヤクの皆様に読んでいただきたいと思い、ゼロから台湾語に触れながら現代の技術を駆使してこのnoteを作成しました。
ここでは元記事に掲載されている写真は引用しません、翔聖選手の素敵な写真はぜひ下記URLの元記事からご覧ください。
また、翻訳に誤りがありましたらコメント、Twitter、Instagramなどで教えて頂けますと幸いです。よろしくお願い致します
はじめに
今回行った翻訳方法はアプリで直訳した文章を紙に印刷し、それを元に日本語をなるべく原文に合わせて読みやすくしました。その後ChatGPTを使って日本語文を正しく整えています。
また翻訳後、正しい内容であるか過去のインタビューや記事を参考にして確認しています。
以下使用したアプリと参考にしたインタビューになります
翻訳アプリ
・白猫
iPhoneの翻訳や他アプリの翻訳を試した中で、文章として不自然な部分はありますが、長文の翻訳が個人的に読みやすく感じました。900円で永久的にプロ機能を使用できます。
・papago
気になった単語や文章を翻訳する際に使用しました。AI翻訳なので文章に合わせた単語を選んで表示してくれます。個人的に長文には向いていないと感じました。
参考元のURL
・8:07〜 奥村スカウトへのインタビュー
・翔聖選手への日本語ロングインタビュー
前半はこちら
後半はこちら
・台北中央社による記事
鶯から燕へ、神宮を目指すー徐翔聖「17」と共にする楽観的な野球人生
Jun 07.2024
著者:CHIA NING
カテゴリー:ストーリー/記事
いつも柔らかな笑みを浮かべ、穏やかで厳しさのない気質を漂わせ、ベンチではすべてに対し好奇心旺盛な小動物のように振る舞うが、いざ試合に入ると精巧な制球力で151キロの火の玉で打者と対決する。2023年のプロ野球ドラフト会議で「逆輸入」の育成指名を受け、数多くの英才の中に隠れていた台日混血者の鶯歌工商・徐翔聖が史上初の日本プロ野球の球団から指名された台湾の高校生になった。
日系の血を引く彼は夢を追いかける際に多くの人とは異なる道を歩むことになった。楽観的で運命を受け入れる性格や今に集中する心構えが台湾で成長し、鶯歌の仲間たちと共に青春を歩んできた。それが今日の豊かな可能性を持ち「17」に関するすべてを携えて日本へ旅立つ翔聖を生み出したのかもしれない。
平成「17」年最後の「17」日:野球を愛する南の島ですくすくと育つ
2005年12月17日に台湾で生まれ日本人の母の血を引く翔聖は、野球の出会いも母親に由来しており、多くの人が父親の影響を受けているのと異なる。母親は大阪出身で熱心な野球ファンであり、阪神タイガースのファンだ。そのため翔聖は幼いころからテレビの中継で阪神タイガースの試合を観ることで、自然と野球に対して理解と記憶を持つようになった。
2013年初め、久しぶりに野球熱が再び全台を席巻した。当時王建民、陽岱鋼らをはじめとした台湾チームはWBC ワールド・ベースオブ・クラシックに初めて進出し東京ドームで行われた日本代表との試合は結果こそ敗れたが、その内容は今でも野球ファンに語り継がれている。翔聖はこの試合をきっかけに野球に強い興味を持ち士東国民小学校でサッカーをしていたが、小学校5年生の時に福林小学校に転校し、正規の訓練の道を開くことになった。そして長安国中学校へ進学した。
野球は「失敗が成功よりも多い」事で知られている競技であり熱血と感情の高まり、そして涙を流すことは学生スポーツにおいてよく見られる普通の光景だが、これらの感情の起伏が翔聖の顔にはほとんど現れず彼の温和な気質はこのスポーツの本質と強く対照的だ。本人ですらその性格の由来を説明できないほど、極度の楽観的な性格は彼に野球の道で印象的な挫折をしたことがないと自覚させた。しかし、決して自分が順調に発展しているわけではなく、すべての目標に対して失敗は成功の過程で必然だと考えていることを強調した。彼は一歩ずつ着実に目標に向かって努力を続けていれば、最後の目的地に到達できると信じており、「今に集中する」性格のおかげで大小の挫折に対してもいつも冷静に対処できると考えている。
プロの夢を抱いていたものの、実際に初めの頃翔聖はプロ野球選手になることを目標としていなかった。しかし、彼の才能は徐々に様々な人々の目に留まり、南部の近年の強豪校である普門中学校からも入学の打診を受けたことがある。高校の帰日就学も彼の評価の一つに挙げられるが、その年は新型コロナウイルスの影響に加え、母親は大学を卒業後日本に帰ることも検討するべきとアドバイスし、これが生涯計画に役立つと考えた。台湾で成長を続ける決断と中学校の硬式リーグでの王伝家監督との出会いが今後の3年間を素晴らしいものにする運命を作った。
「17」を象徴として:共に苦楽を分かち合った3年間の鶯歌での思い出
通学の便や王伝家監督のスタイルを考慮した結果、翔聖は最終的に鶯歌工商に入学した。高校の3年間で翔聖は背番号「17」を使用しており、この数字は彼の誕生日の「17」に基づいている。その背番号はチームメイトたちと共に数々の新たな記録を成し遂げた喜びを象徴し、多くの苦楽を共にした青春の思い出が残されている。
入学当初の球速は最速130キロ前後だったが、今では実践で151キロを投げることができるようになった。近年多くの優秀な投手を輩出しているこの学校がどのように才能を育てているかが非常に興味深い。鶯歌工商の王伝家監督の眼からみて、高校球児のためにこの3年間で、体力と技術の基礎をしっかりと築くことは、卒業後すぐドラフトに出られる優れた選手を急速で育てる事よりもはるかに重要だと考えている。毎日約3時間の過度な練習を避けた段階的なメニューを消化し、高い自主性のある学習環境の中で常に「今に集中する」事を習慣づけながら自身の才能を少しずつ開花していった。球技訓練のほか、サッカーなどの様々な球技活動も行われており、チームメイトたちは自主的に夜間練習をする習慣があり、それぞれ不足点を強化し補っていた。
翔聖はこの仲間たちと共に鶯歌の歴史において黒豹旗(準優勝)木棒リーグ(2年連続でベスト4)という優れた成績を収めた。こうした自由で自主的、かつ楽しさを兼ね備えた雰囲気の中で深い友情を築いていった。
※ 黒豹旗は台湾の高校野球大会の1つ、特に強豪が集まり優勝を争う重要な大会
※ 木棒リーグは高校野球において木製バットを使用するリーグ戦、選手が実践的な経験を積む大会
翔聖が高校1年生の時を振り返ると、彼とチームメイトたちとの絆はまだそれほど強くなかった。しかし、高校2年生からチームの大多数が木製バットを使用するようになり、一緒に各地での試合や大会で戦ったり楽しい時間を過ごすうちに、次第に団結が深まった。チームメイトたちは誰かのパフォーマンスが良くないからといって責めることはせず、互いに励ましあいながら成長していった。多くの輝かしい成果を共に創り出し、普段の練習でも活発に切磋琢磨し、また高校生活には思わず笑ってしまうような楽しい出来事もたくさんあった。翔聖はある定期テスト前の自習について語った。コーチが教室を離れた途端、誰の指示もなく自然と全員が完璧な連携を発揮し大声で歌いながら席を立った。ところが、偶然にもコーチが戻ってきてその場を発見されてしまい当然のように叱られることになった。
チームメイトの目に映る彼はどうだろう。高1と高3の時、共に彼のルームメイトであり親交のある曾偉哲は「ポジティブで楽観的でプラスのエネルギーを持っていて心を分かち合うことができる人」だと思っていたが、インタビューの途中で通りがかった遊承勲、柯楊承勛、荘勝凱、劉桀安などの同級生たちは、口をそろえて「装死」と呼んだ。(死んだふりをしているという台湾語)周りから呼ばれても聞こえないふりをしているからだ。彼らはこの控えめな同級生をこう評した。
仲間たちからの率直なからかいに翔聖はただ苦笑いをするしかなかったが、彼らの間にある飾らない真の友情は明らかだった。
翔聖のポジティブなエネルギーは大声で積極的なことをアピールするのではなく、むしろ今をしっかりと理解することに重きを置いている。各段階でやるべきことを明確に整理し、たとえその過程に公開や不満があってもそれを笑い飛ばすことで次の一歩を踏み出す力に変えていく。
「17」歳の転機の夏:アイデンティティの変化、プレッシャーの変化、楽観的に向き合う野球人生
2023年玉山杯において、親北ユナイテッドは期待されていたもののチームの不振が影響し、チームに所属していた翔聖もU18世界選手権のトレーニングチームに選ばれなかったことが彼にとって深い遺憾となった。翔聖は国の代表選手を逃したことに対して失望したものの、すぐに気持ちを切り替えてその後の長い夏を充電期間として捉え、筋力を増強することに努めた。17歳の真夏、つまり高校2年生から高校3年生にかけてのこの時期に、幼いころには決まっていなかった「職業の夢」が一瞬でより明確で具体的なものになっていった。翔聖の潜在能力と日々の成長が、ちょうどその年の5月に日本プロ野球球団東京ヤクルトスワローズの国際スカウトによって発見され高く評価された。その結果、17歳の歳に行われたプロ野球ドラフト会議で彼は育成選手としてチームに迎え入れられることになった。
※玉山杯は台湾で行われる高校野球の大会、多くの指導者やスカウトが注目する
一夜にして多くの人に知られる「準プロ」選手となり、ファンからは様々な意見や悪い意見が自然と集まってきた。翔聖にとって新しい立場は2つの異なる意味を持っている。ひとつは「多くなった」ことでパフォーマンスが悪い時のプレッシャーだ。以前は「彼は投げ方が良くないのに試合に出るの」といううわさが耳に入る程度だったが、今は「彼は投げ方が良くないのに、なぜ海外に行けるのか」という辛辣な批判になった。2つめは「少なくなった」ことで、将来についての心配が減ったことだ。卒業後の進路が決まっているため、周囲の同級生たちのようにスカウトの注目を得るために奔走する必要がなく、安心してトレーニングすることができる。
多方面から注目されるプレッシャーに慣れ、指名後の黒豹旗では素晴らしい投球を見せた。また高校最後の大きな大会である木棒リーグでも球速が新記録を更新して先発と救援の両方で活躍し、決勝に進む前には勝投王を獲得できると期待されていた。しかし、3位決定戦の最終回に昨年の準決勝で対戦した普門中学に逆転を許してしまい最後の大会には少し未練が残った。
※勝投王とは勝利投手のタイトルのこと
この出来事を振り返るといつも明るく前向きな彼はチームメイトに申し訳なく思っているという。しかし、その投球過程では確かに自分の成長を感じていたが、結果が期待通りにいかなかったことも認めている。「失敗の結果もプロセスの一部であれば素直に受け入れ、結果がよさそうに見えてもプロセスの中で自分が成長していない状態であれば、最後に勝利しても称賛に値することではありません」とこの青春の挫折を堅実に評価し、すべての失望をまるで笑って流してしまえるかのように成長の糧に変えることができるように思える。
「17」の時代が終わり、すべては「0」からのスタートとなる。陶器の町での3年間はあっというまに過ぎ去り、背番号「ゼロ」から始まる育成選手として飛び立つ。出発前夜、翔聖はチームメイトと共に体力と筋力を強化し、楽しみながらトレーニングに励んでいた。特に競争力の高いプロのキャリアについて心配することなく、すべて自然の流れに任せている。彼の楽観的な性格はこれまでの今を大切にする姿勢からきている。したがって、これから始まる新たな旅に対する期待感は不安感を大きく上回っている。新しい世界は彼に多くの挑戦をもたらすが翔聖は明るい笑顔とポジティブな心構えで様々な試練に立ち向かうだろう。そして神宮球場の五彩に彩られた傘に迎えられる日を静かに待ち望んでいる。
おわりに
翻訳記事を作成するにあたり、原著者であるCHIA NING様に心から感謝いたします。また、SNSでの公開を快く承諾していただき、ありがとうございます。
在製作翻譯文章時,我想對原作者CHIA NING表示衷心的感謝。同時,謝謝您樂意同意在社交媒體上公開這篇文章。
翔聖選手に興味を持つ日本のヤクルトファンや他球団ファンがひとりでも増えたら嬉しいです。
最後に、こちらの動画も合わせてご覧いただけますと幸いです。これからも翔聖選手の活躍を期待して、結びとさせていただきます。