平等と差別。
人間は須く対等である。富を持つものが強いのでも、知識が深いものが強いのではない。例え、生きていることが困難でも、生きていること、そして死して尚、対等なのだ。
生きると言うことは、常に試練に自ら立ち向かう事を示し、例え戦えないほど傷ついても、何処かで立ち上がり、善処していくことを示す。辛いときはある。誰もがそういうときを乗り越えるから、前進しているといえる。
己の我儘がいつまで通るかは人それぞれだが、年齢を16歳になってまでそれが通ると思っているのは愚かなのだ。
僕は高校時代弓道部に所属していた。最初は上手くいかない現実から逃げ、部活をさぼっていた。しかし、ある同級生に言われ、努力することで己を錬磨することにたどり着いた。しかし、僕が高校時代の味わった差別は言われのない差別だった。弓道とは礼節に基づいて、仲間が仲間を助けることは、実にその本質に置いて精神道といえるはずなのだ。ただ。僕が体感した弓道は、的中こそがけっかであり、的中数をカウントし、その人の人間性を潰すようなものだった。本来一緒に練習している仲間が、仲間を追い詰められ、精神的に追い詰めても、自分達の痛みではないと嘯くのだ。本来仲間とは、その人の優位性だけのことをしめすのではない。悩んであると把握すれば、そこでてをさしのべ、援助し、仲間として助け合うことが成長だろう。
差別とは、人間が下す最も最低の行為である。どんな状態であっても話を聞き、相手の事を理解しようとし、自己の優越性で愚弄するのではない。
僕はこの高校時代の仲間を信じてきた。しかし、行き着くところ差別されて仲間だと本当に思えなくなったのだ。自分の機能をただ使うだけの存在が、仲間と呼べるかと言われたとき、それは、どんなに自分を偽っても呼べないのだ。
もちろん、その差別下の状況で、見方になってくれ、長い時間互いを信じることがなりたち、この人となら、恐らく衝突してもわかり会えると思うともだちはいる。
自分のカーストを作る気など、さらさらない。ねがわくば人類にさべつがなくなり、平和に怯えなくても過ごせるようになれば理想なのだ。