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▍"配慮"という魔物


「多様性」「思いやり」「配慮」

いつからこれらの言葉は本来的な意味を失い、相手の行動を抑制し、自らの思い通りに人を動かす印籠に成り下がったのでしょう。

いつから「私の不快」が「社会の不快」になり、
"配慮"は「人にするもの」から「私に対してなされるべきもの」になったのでしょう。

今日は「配慮」について、少し乱雑な言葉で(配慮を捨てて、)書いてみようと思います。


社会性を失った理性のない人間に対する啓蒙が、「老害」という魔法のカードで抑制されるようになったことで、間違った人間が正義を振りかざし、自分のことしか考えない人間ほど「社会」を謳い、あらゆる人々が「被害者」を自称している社会を、私は異常だと感じています。

誠実に生きている人々にとって、この「弱者側にあえて立つ人々」による、"ワタシニ配慮シテクダサイ"という魔法の呪文が、どれほど障壁になっているでしょうか。

■大切なのは内容じゃない、言葉尻だ


「どんなに正しいことを言っていても、言い方が悪ければ意味がない。」

一理あります。人は感情で動く生き物ですから、当然です。
組織で働くうえで、配慮というものは当然に必要であり、特に関係者の多いメンバーほどわきまえるべきものだと考えます。

では、こちらはいかがでしょうか…?

「言い方が悪かったから、あの人の言っていることは無視しよう」
先程の発言の主体と同様に、当然これも、言っている人に対しての配慮が足りず、かつ物事も前に進まない考え方と言えると思います。
実際にこれを言う人がいたら「協調性がないなあ」とか「子どもだな」という評価が妥当でしょう。


しかし実際はどうでしょうか。

政治家も、芸能人も、果ては野良のSNSアカウントにさえも、
「言い方」に噛みついたあげく、内容の精査はせず、正しさを見出そうともせずに封殺する人があとを絶ちません。

そして一見いい人ばかりに見える会社でも、同じことが起きています。

人に厳しいことを言える人はもうあまりいません。
「褒めて伸ばすのが正義」という言説が市民権を得ていて、厳しいことを言う人は「時代遅れ」であり「パワハラ上司」であり「ジャーク」とされるからです。

相手になにか指摘をするときは、クローズな場をつくり、指摘の数倍の褒めポイントを用意し、オブラートでぐるぐる巻きにした言葉をプレゼントする必要があります。

もしそれを怠るようなことがあれば、こう言われるのです。
「ワタシニ配慮シテクダサイ。」

そしてこの呪文を使うひとは、決して相手への「言い方は気に食わないけど、わざとじゃないだろうし、内容だけはしっかり受け取ろう。」という”配慮”のことは、どこか遠くにおいてきてしまっているのです。

■"配慮"という概念のモンスター化

少しでも気に食わない言い方があれば、あるいはイケてない発言があれば、鬼の首を取ったかのように騒ぎ立て、文句を言い、第三者に告げ口をしたうえでその発言は無視する、そんな人が身の回りには少なからずいます。

仕事においては、顧客への貢献や事業拡大、組織改革など、
まさしく業績や社員の待遇に直結するような議題が無数に転がっています。
そして会社とは「私たち」ですから、当然それらを推進しなければ、私達が享受している日常も、対価も、人間関係も維持できません。

そんな中にあって、
なぜか他人に対しての配慮ばかり求め、自らはなんの配慮もせず、当たり障りのない仕事をして、物事を前に進める人の足を引っ張る人がたくさんいるのです。

そういった人たちは、その姿勢に対する指摘やFBにすら、配慮を求めてきます。これは実際には配慮を求めているのではなく、「なるべく自分が責任を追わず、仕事も背負わずに対価だけは確実に得たい」という人間の弱さからくる逃げであることが多いように思います。

もちろん相手の感情設計や思いやりなど、「配慮する」ことは非常に重要です。
一方で「配慮される」ことばかり求めている人は、往々にして「配慮する」ことを疎かにしている傾向があると私は考えています。

こういった人々により、かつては当たり前に私達の生活の中にあった「配慮」という言葉が、どんどん定義を拡大し、どんどん悪質で鋭利なものに変わっていきました。

いわば善意のモンスター化です。

善意や配慮は「+α」の加点評価だったのにもかかわらず、いつの間にか一発勝負の減点方式のテストになってしまいました。

■難しすぎる社会との向き合い方

ではどうすればよいのでしょうか。

私は、このようなモンスターに対し、大きく2つの向き合い方を心懸けています。
(もちろん、誠実で真っ当な人々に対しての配慮は、心の底から相手を思ってしています)

①とはいえ、ちゃんと配慮する。
色々書いてきたものの、正しくないと思うからといって、真っ向から戦いに行っても目的は達成されません。ちゃんと配慮し、ちゃんと相手に寄り添うのが合目的です。

一方で、そういったモンスターに対してだけは、心の中では、相手のために配慮しているのではなく、完全に目的のためだけにしてやっているんだと、言い聞かせ、歯を食いしばって、力のかぎり優しくしましょう。

②許容ラインを超える人の存在は認識しない
これもまた、見る人によっては火種になる考え方かもしれませんが、
ある一定のラインを超えている人については、もはや存在しないものとしてみなします。その人にお願いしたかった仕事は代わりに自分でやりますし、その人に了承を取りたかったものは、その人の上司に取ります。理由は面倒くさいからであり、仕事が進まないからです。

繰り返しますが、会社とは「私たち」であって、
私達が成果を出さないということは、会社が私たちに提供する対価も出ないということです。
これを考えると、そういった人々とはなるべく仕事をしたくないですから、いないものとして扱いましょう。

見る人が見れば「何を当たり前のことを、、、」と思われるかもしれませんが、おそらく5年、10年が経過すると、本当に笑えない話になっているような気がします。

いろいろと書いたものの、
私達の世代に対して上の世代が同じように感じているかもしれませんし、
下の代も然り、「私」の価値観が正解である時代と場所は常に変わっていきます。


強い思いをもって問題解決に向かう不器用な人々の、
その思いと裏腹に協力を得られないもどかしさを、少しでも解消できる記事になっていれば幸いです。


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