▍学歴採用を悪と言い切れない世の中
みなさんは「学歴」をどう捉えていますでしょうか。
私は、学歴を身分や肩書としては捉えませんが、
「積み上げてきた努力量」と信頼できる相関がある指標として認識しています。
最近では、兄弟の有無や出身地を聞くだけで「雇用機会の均等」などあの手この手で指摘が入る窮屈な市場になってきましたが、その回答や属性のみで採用可否の条件とすることこそが悪であって、それを聞くこと自体が悪なのではないと個人的には解釈をしています。
今日はその最たる例である「学歴」についてお話できればと思います。
なお、定期的に就活界隈で学歴差別が炎上をしていますが、職業安定法においては本人の適性・能力を判断する材料としては比較的広く認められています。
■学歴採用の功罪
学歴採用はいつから始まったのでしょうか。
古くは、1968年の一般採用応募の自由化まで遡ります。
もともとは国が新卒者を会社に割り当て、初任給も一律にするような時代もありましたが、混獲的な高度成長の中でなし崩しになっていきました。
就活情報産業が活発になるにつれ、企業は多くの母集団をあつめます。
そして高度経済成長後のバブル崩壊による突然の買い手市場=人材飽和により、大量の母集団から学歴によってフィルタをかけ、残った一部の優秀な学生だけ採用をする手法が当たり前になっていきました。
これにより効率的に最低限の能力や素養をもった新入社員を採用できるようになりました。
■学歴と能力の相関は確かにある
こう書くと、一部の例外を持ち出して「学歴採用はおかしい」と否定する人が多くいます。その方々の主張は「学歴ではなく経験や行動を見ろ!」というものです。
そういった批判をする方はご存知ないかもしれませんが、すでに多くの企業において、特に皆が入りたいような良い企業ほど、本当に能力・適性さえあれば学歴に関係なく採用しているのが事実であり、その中で、お金も労力もかかる採用活動・マーケティングの効率化のためにある程度のターゲティングをしているだけです。
面接官のリソースが限られていますから、当然すべての母集団に等しく選考機会を提供できないことは明白です。
だから書類選考で、「少なくとも学業においてはある程度の努力と経験をしてきた母集団」以外を弾くのです。その中にたとえ優秀な人がいたとしても、そもそも採用活動を全員に等しく行うことは著しく非効率なのです。
採用人数が多い会社ほど、この「学歴フィルタ」による効率化のインパクトが大きく、採用されてきた背景があります。
とはいえ最近で大学の定員は割れ、個別の家庭の事情はあれど、社会的に見れば誰でも大学にいける時代です。そして大学は誰でも学業という出自によって制限されない尺度で選べます。
私も実家から遠い国立大学に通いましたが、塾にも行かず滑り止めの私立も受けずに学費は奨学金と成績による免除で乗り切り、家賃を含む生活費はギリギリまでアルバイトをして工面しました(相当大変ではありましたが)。
もちろん家庭環境は様々ですが、情報にアクセスし、努力できる土壌にあるラインであれば、誰でも勝ち取れる権利です。(そもそもその当たり前が難しいご家庭もあることは重々承知していますが、逆に企業側にそこまでの配慮を求めることは社会システムとして全体最適ではないので、非合理的といえます。)
となると、学歴採用の何が悪いのでしょうか?
悪いのは「学歴」のみをみてエントリーの権利を奪うような採用であり、
効率のために学歴高い子が多い母集団にアクセスすることは、本来的には問題ないのではないでしょうか。
私は経験上、仕事の成果やポテンシャルは「積み上げてきた努力量」と明確に相関があると考えており、意外なことに人への優しさや人格のようなものもある程度相関するように思います。
大変な思いや挫折、目標に向けて叶うかどうかわからない努力をしてきたかどうか。それによって、仕事においても困難を乗り越えられるかどうかの見立てがつきます。
そうなった場合に、少なくとも「学業」という、仕事においても必要とされる経験の側面で、ある程度努力量と相関のある「学歴」を、採用活動の効率化のためのターゲティングに利用することを、私は悪だとは言い切れません。実際に「頑張れない人」に入社されて困るのは上司であり同僚であり、顧客であるからです。
学歴のみで採用するかどうかを決めるのがだめなのであって、採用活動の結果として学歴が高い方のほうが内定率が高い/内定数が多いことは、ごく自然な結果と言えます。(「そうあるべき」とは言っていません)
はっきり言いますが、明らかに学歴と仕事の出来に相関はあり、先ほども述べた通り、「組織で前向きに働くこと」を前提にした場合には、人格にもある程度相関があるように思います。
そして同時に、学歴が低くても優秀な人は一部いる、というのもまた事実です。
学歴主義に反対で、かつ高学歴ではない方は、
高学歴の人間が思いのほかとんでもない努力を積んできたことを知ってください。そしてそのような人々と同じ土俵で戦うには、学生時代についた学業へのコミットメントの差を、いま埋めなければならないということを認識してください。
その差分を埋めてきた人は、学歴にかかわらず、その学歴差別という被害の外側にいるのです。
■まとめ
学歴は努力の結果です。
学歴と能力は相関します。
そして、例外もあります。
この至極当たり前の3点が、公言するとなぜか叩かれる世の中です。
職安法ですら制限されていないのにもかかわらず、
なぜかちょっと言いにくい状況になっている中ですが、構造という事実と主張の切り分けができる人が増えることを願っています。
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