あかんこ
「あかんこちゃんはしょうがないなあ」
そう、たしか中学の体育の時間だった。創作ダンスのチームになった私たち六人のリーダー加帆ちゃんが命名したのだった。赤田寛子、略して赤寛子。私たちの前で盛大にずっこけていた彼女は、踏みつけて転んだ靴紐をもたもたと結びながら「でへへ……」と笑った。
あれは呪いのことばだったのだろうか。
AM3:04
コーヒーを淹れて一息つきつつSNSを覗くと、タイムラインに浮かんだ彼女のアイコン。くらげのようなへにゃっとしたイラストが言っている。
心にぽっかり穴が空いちゃった。
アカウント名は“あかこ”
私の幼なじみだった。何をこんな時間に……。
こんなうつろな空間に、誰に向かってでもない言葉を放り投げているのだろう。
そういえば、彼女とはしばらくやりとりしてなかったな。気になりつつ。
「あーもう無理。十分経ったら起こしてー」ゼミ仲間からのラインに突っ込みを返しつつ、レポートの続きに取り掛かるのだった。
で、また一週間くらい忘れていたわけだが。ようやくゼミの発表も済んでさっぱりした、季節は冬の終わりころだった。学食でお昼を食べながらそうそう、と寛子に連絡を送る。すぐに元気そうな返事が来る。とりあえず生きててよかった。帰りに寄るわーと返信。彼女の現住所はうちの大学のわりと近く。お互い同郷から遠く離れた都市に出てきたもの同士なのだ。
午後の講義を終え、途中でシュークリームを買って電車に乗る。十分ほどで見慣れた、最近立ち寄っていなかった駅前に着くと、ぴゅうっと冷たい風が吹き抜けるなか、あんまり人通りのない商店街を歩いていく。相変わらずシャッターがたくさん下りていて鄙びた印象の街だ。そこを抜けると小さな公園があり、曇り空に落葉樹の梢が揺れるのもこれまたわびさび。細かく枝分かれした路地をいくつか通って、たどり着く。ボロいアパートのポストの一つに彼女の字で赤田と書いてある。カンカンと錆びた階段をのぼり、二○一のドアをノック。ピンポンのボタンは確か壊れているのだ。でも一応それも押す。「……」
「ついたよ」とぽちぽち打っていると、がちゃりとドアの開く音がして、隙間から顔が覗く。
うっ。思わず少しあとずさってしまった。
伸びまくった長い黒髪のせいでけっこうホラー。
「お……おっす」なんとか落ち着いて再会のあいさつを私はするが。
「……」彼女はもそもそとカサカサのくちびるをうごかすだけで。
やがてポケットからスマホを取りだしさわり始める寛子。私の手元にぽこんと反応。そこにはこうある。
「しゃべりかたどうやるんやっけ」
「あかんやん!」つい私の口からは大きい声がでる。
「っていうか大丈夫なん、無職って」
だいぶ散らかった部屋を見回しながら私はもう心配になる。
「一応、まだお金あるから……」
彼女は数ヶ月前まで「夜のお仕事」をしていたとかで、そのときにだいぶ稼いでいたのだった。私のささやかなコンビニバイトの一年分を秒で稼いでいたとかで、まあよくやるなと思っていたわけだったが……。
現状を見るに生活は崩壊しているっぽくて。
(こんなことしてちゃだめだよ)口をついて出そうになる、否定の言葉。私はそれをぐっと飲み込む。彼女はひとりで生きていくしかないのだ。
中学一年のとき両親が離婚して、藤宮寛子から赤田寛子になった彼女は身だしなみも急に雑になり、成績も素行もガタガタに悪くなっていった。
ちょうど家が近所だった私は学校からのプリントとかなんやかんやを持ってたずねたりしていたのだが、ある日、帰り道の途中の河川敷でぽつんとすわっている彼女と出会った。
「赤田、さん?」まだ呼び慣れない名字をつぶやくと彼女はこっちを向いた。夕日に照らされて彼女の頬と、目の下あたりにくっきりとあざがあるのを私は見た。彼女はあざだらけの顔で、くしゃりとほほえんだのだった。
「ごめんね。私も最近忙しくってさ、大学が」そう言うと彼女は少し肩を落としたようだった。
「大学、たのしい?」私はため息をつく。
「しんどいよ。色々提出しなきゃでこないだからだって徹夜だったしさぁ。もうすぐ就活もはじまるし……」なにげない愚痴だったのだと思う。
だけど、しばらく彼女は沈黙し、それからゆっくりと口をひらいて言った。
「ぜいたくな悩みだね」
「え?」思わず聞きかえすけど、彼女はふにゃっとほほえんで、それから。
「シュークリームおいしい」
「けっこう人気店なんだよね、ここ」
私たちは友だちだ。
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