巡礼
ここが聖地なら、私は救済されただろうか。
いや、そもそも巡礼というものの目的は救済ではなく、聖地とは通過点に過ぎないのだろう。言ってしまえば一個の人間の生から死に至る全てが一つの巡礼なのかもしれない。だとすれば聖地とは死、霊界ということか。私は頷いた。仕方ない。人は皆、不安なのだ。彼らもまた巡礼の途中であり、偶像に縋ることによってその疲労を癒しているのだろう。私は正面にそびえる、十年前に日本を救った「光人」の等身大像を仰ぎ見た。彼は何者だったのか。あの出来事はなんだったのか。理解できないことばかりだった。だが、おかげで日本は「光人国」として真の独立を成し遂げることができた。もし彼がいなければ今、日本という国はなかっただろう。十年前、そういった意味でも本当に危ういバランスの上に、この国はあったのだ。
それにしても、と私は頭のなかでTORACOの通信タブにアクセスし自分の送信したメッセージを確認する。
「右足におる」と間違いなく書いてある。それに対する父の返事が着信したのはもう一時間も前だ。何故突然連絡が来たのか。まさか父が生きているとは思わなかった。そして微かに期待してしまったのだ。あの混乱を生き抜いた父に。だが会う前から期待は失望に変わりつつあった。父は何も変わっていない。
「やほ」だから、顔を上げたときそれが父だとは理解できなかった。父は右手を上げて「やほ、やほ」と言った。
「あら、娘さん?」喫茶店の女主人は父のことを知っているらしかった。私が頷くと、女主人は「目元がそっくり」と笑った。
「何食べよう」父は毛深くて細長い両腕でしっかりとメニュー表を掴み、写真を凝視していた。前日の昼から何も食べていなかったが、むしろ胸がむかむかするようで全く食欲が沸いてこなかった。父がメニュー表をさっと見終えるとすぐに何らかの品を注文しながらこちらを見たので「私はええわ」と首を振った。そして今、自分が父に話しかけているのだと再認識した途端、諦めのような感情が沸き起こり、私は煙草に火を点けた。
「僕、煙草やめたわ」父が言ったので、私は曖昧に頷いた。家の中で煙草を吸う父を母が何度も非難していたことを思い出す。どうせならあのときやめればよかったのに、と私は思った。だが、どちらにしても同じだっただろう。「家族」というシステムが父には合わなかったのだ。あれから二十年以上が経過した今になって、私も実感する。突然連絡してきた父と会う気になったのは自身もまた独りだったからだ。
「なあ、これセガやで」私は耳に嵌めていた小さな情報端末を取り外して見せた。「TORACOって言うねん」「セガはもうええわ」父は遠い目をして私の掌の上のそれを見ていた。
私はあの頃の父と会話がしたかったのだろうか。日曜日のあの朝、私たちに背中を向けて黙々と新品の機械をテレビに接続していた父。あとでその機械の使い方を図に描いて教えてくれた父と。
私は煙草を消し、父の顔を見た。父も私の顔を見て、黙って見つめあう。
「卍道、やっとんねん」唐突に父が言った言葉の意味が理解できず聞き返そうとしたところで、お盆を持った店員がやってきてテーブルの上にどろどろに濁った汁の載った皿を置いていった。父は待ってましたとばかりにスプーンを取り上げ、がつがつと食べ始めた。芳醇なスパイス類の香りがしたかと思う間もなく、排泄物と紛うような獣臭が強く皿から漂ってきて、私は思わず顔をしかめた。向かいの父を見ると一切れの肉片を口からはみ出させたまま咀嚼している。その姿に知覚の原始的な部分を刺激され、私は苛立った。父は皿とスプーンをしっかりと掴み、飽きもせず一生懸命に運動を続けていた。
二人連れだって雑踏を歩く。私はふと思い出して口を開いた。
「卍道って何?」「ん。ああ……」
父はもごもごと口の中で声を出して、頷いた。
「これからは卍道や」「宗教か」
「僕な、一回死んでん」父が何か言いながらすたすた歩いていくのを、私は立ち止まり眺めていた。
じゃあ、この人は誰なんや。
「二機目か」思わず少し笑いながら私は呟いた。