「樹々の日々」第1話

【あらすじ】
誰も知らない職業『瑠璃珠師』の弟子、樹々はひとり家に引きこもり研究の日々を送っていた。
瑠璃珠とは、自分自身の特性を生かすことで生じる不思議な現象。
樹々は十年にわたる修行のすえ、自身の特性「空気にひびを入れる」ことばを発して、ついに瑠璃珠を成就させる。

ひび割れた空間の裂け目。向こう側には「無」が広がっていた。
ここではない空間。その中に、一人の人がいた。
捨てられた子犬のような表情を浮かべる男の子。
ツノが生え、細長い尻尾も生えたその人物は悪魔か、それとも……?


 ぴしり、と空気にひびの入る音を聴いたことがある。
 私の特性だった。
 ことばを発することは、だから恐ろしかった。
 だから、私は部屋でひとり瑠璃珠るりじゅをつくっていたのだった。
 ことばが、白い壁紙を打ち、空気をびりびりと震わせる。
 冬の空気はぴりっと乾燥していて、割れやすい。
 二月。今年こそは、と意気込んで始めた研究は未だ成果もなく、じきに冬も終わろうとしていた。
 師匠に教わった瑠璃珠づくり。ひっそりとこの仕事に取り組むために格安で買った田舎の一軒家での暮らしももう一年になる。
 ふう、と吐いた息が白いことに気がついて顔を上げると、窓の外には雪が降っていた。
 集中していたのでわからなかったけど、室温がずいぶんと下がっている。
 質素な生活を送る私は、暖房器具も灯油がもったいなくて使わずに、もこもこに着込んで寒さをしのいでいるのだった。
 だけど、不思議だ。
 そのときは外気と同じ氷点下近くまで下がっていたであろう室温を、まったく寒いと感じなかったのだ。
 むしろ張りつめて冴えた空気が、そう、まるでカットされた宝石に光が反射するようにきらきらと、部屋中に煌めいているのだった。
 ぴしり、と空気にひびの入る音を聴いた。
 あの日も、そうだった。こんな雪の日だった。
 だけど、寒さは感じない。無のこころで、意識の外側から発したことばは現実を打ち破る。
 ここではないところへと届くように。
 音ではない、透明な、霊のことばを私は発する。

 ぱきーん。
 空気が、ついに割れた。
 瑠璃珠の成就となったのだ。
 師匠の言うとおり。
 師匠は私の素質を見抜いて下さっていたのだ。
 教えはただ一つ。
「自分自身の特性を生かしなさい」
 師匠の特性は『見ること』だった。
 人の、生命の内なる精神。
 精神は千差万別であり、あるものには光を、またあるものには闇を、師匠は人々の内に見出していた。

 割れた空気の切り口はぎざぎざで、ちょうど外の光を取り入れる窓一面に重なって、縦横二メートルくらい広がっている。田んぼの広がる田舎の風景にぽつりと建った一軒家の二階、町のシンボル、中央にでんとそびえる大きな山が見えるはずの景色が『無』になっている。
 誰か……例えば神様が、世界、三次元空間の作成をしていて、ちょうどそこだけ空間設定を忘れたかのような、何もない状態。
 私は昔一度、無我夢中で自ら生み出したこれの中に飛び込んだ。
 嫌なことだらけの現実から逃れたい一心で、無意識に行った行為だった。
 そして師匠と出会ったのだった。
 師匠は私を平手で打って、二度とするなと言った。
 それから、見ず知らずの他人の私に対し涙を流しながら、ぎゅっと抱きしめてくれた。
 人から打たれるのも、抱きしめられるのも初めてだった。
 私は師匠に弟子入りし、瑠璃珠をつくる練習をはじめた。
 瑠璃珠。この世界に存在する『真・善・美』をかたちづくったもの。
 師匠はその職人だった。
 世界には折り重なった幾つもの層がある。
 一個一個の生命、人の数だけ見える世界は異なっている。
 そのそれぞれの『見え方』をかたちにすること。
 ただし悪でない、正しい立脚点でかたちづくったときのみ、瑠璃珠は成就される。
 十年、修行の日々だった。
 私は、自ら作り上げることのできた瑠璃珠、空間の亀裂をあらためて眺めながら、ほっと息を吐いた。
 そしてようやく気づいた。
 割れた空間のすき間から、にゅっと、何かが生えている。
 何かっていうか、人だ……。
 ガラスに映った像のように半透明だけど。
 捨てられた子犬のような表情を浮かべた人が、上半身をこちらの空間にはみ出させながら私の顔をじっと見つめていた。
 こんな事は、想定していなかった。
 元より、常識の範囲外の現象を扱う行為だとわかっていたつもりだったけど。
 そう、自ら一度飛び込んだ経験から、すき間の奥は無、何もないものだという思い込みに囚われていた。反省……。
 いやそれどころじゃなくて!
 私は混乱していた。
 人を招くつもりじゃなかったから。
 部屋中に空のペットボトルや、放り捨てた紙くず、脱いだ服が散らばっている。
 全身に冷たい汗が滲みだす。
 わーっ! と叫びだしたくなる衝動をこらえて、私はぎこちない笑顔をつくった。
「散らかっちゃってて、ごめんね。はは……」
 そういうことじゃない。
 今まで生きてきて何度も後悔したことだった。
 学習しない。
 私はコミュニケーションが下手すぎる。
 泣きたくなりながらも、ようやくこの現状に少し順応しつつあった。

 空間が割れたら、中に人がいた。
 歳格好は十代くらいの男の子? で、不安そうな表情で……。
 そこで、私ははっとしたのだった。
 この子は、あのときの私……。
 迷子の私、現実から逃げだすために、空間の狭間に飛びこんだ私だ。
 ぎこちなかった表情筋が、自然と緩むのを感じる。
「私の名前は樹々きぎ。貴方のお名前は?」
 私は微笑んで、彼に声を掛けた。
 彼は少し首を傾げて、口を開いた。
 ぽろり、と雨粒が鍵盤をうつような、軽やかな音が鳴った。
 それは、言葉というより音楽だった。
 意味はわからない。
 ただ『綺麗だ』という印象だけが私の胸の内に生じて……。
 ほとんど無意識に、彼の手を取っていた。
 ひとり部屋にこもって日々を過ごしている、普段の私なら絶対にしないこと。
 人と関わるどころか、触れるなんておそろしいことのはずなのに。
 掌に触れる感触はむしろ冷たく、心地良かった。
 血の通った人間と同じ皮膚の柔らかさは確かにあるけれど、その冷たさには恒温動物特有の体温が感じられない。
 内心で少し戸惑いながらも、一度動きだした身体の運動は、彼を空間のすき間からこちら側へと引っ張りだしていた。
 手を引かれるままにつんのめる上半身に追いつくように彼の右足が、裂け目をまたいで部屋の床を踏んだ。続いて左足も。彼はこちらの世界に降り立った。
 半透明だった彼の姿に、さっと絵筆で塗られるように色が付いていく。
 彩られてもなお、白い肌、灰色の髪……薄い配色の。
 その姿を目の当たりにして、私は息をのんだ。
「人……じゃない?」
 両耳の上、こめかみ辺りに、生えている……。
 何が? あえて言うならアレだ。
 スーパーのレジで店員さんが手に持って、バーコードをピッてやるやつ。
 アレが二本、にょっきりと生えているのだった。
 そして下半身、お尻の後ろから床まで細いものが伸びている。
 その先端にくっついているものはもう他でもない。
 コンセントに差すやつ。
 頭からレジのやつが生えてて、お尻から電源ケーブルが生えてる人間はいない。
 だけどシルエットは完全に、人間なのだ。
 直立した脊椎動物で、体型や顔貌の特徴は人と同じ。
 そして角と尻尾が生えている。
 このように表現すればこの存在は、悪魔と言って差し支えなかった。
 私の属する、真善美を追求する研究とは相反する存在。
 師匠は言っていた。
『邪なるものは常に、真・善・美と表裏一体』
 裏というのが、私のつくった空間の裂け目の向こう側のことを言うのなら……。
 この人は、邪なるもの、悪魔かもしれない。
 私は手を離して一歩引き下がっていた。
 引き込んだ身でありながら身勝手なことだと、恥ずかしさに全身がきゅっとなる。
 部屋のフローリングに素足のその子は、ふるっと震えるとくしゃみをした。
 鈴の鳴るような音が空気を揺らす。
 綺麗だなぁ、などとぼんやり考えていたけど、それどころじゃない。
 意識が現実に帰ってくる。
 まず、男の子は一糸纏わぬ姿だった。
 わあっ! と自前の着る毛布を覆いかぶせてから背を向ける。
 部屋をぐるぐると歩き回りながら思考を巡らせた。
 これって、成功なのか失敗なのか? 師匠に連絡取るべき? それはそうだけどあの人はいつもあちこち飛び回ってるし、とにかくまずはなんとかしなきゃ……。
 現状の把握。
 とりあえず、彼のそばにビーズクッションを置く。不思議そうに眺めたあと、彼はその上に膝をかかえてしゃがみこんだ。私は部屋を出て灯油ストーブと水を汲んだヤカンを持ってくる。ストーブを点けてヤカンをのっけると、じきに部屋が暖まり、しゅうしゅうと湯気が立ちはじめた。
 空気の割れる作用の反対は、温度と湿度だ。
 そしてあらためて、空間の裂け目に近づいて観察する。これは三次元空間と重なっているだけで、いわゆる『現実的』存在ではない。もちろん、カメラにも写らない。スマホを通して見ると、窓の外にはいつもの風景が写っている。つまり網膜で捉えているのではなく、感覚的にそこにあるように視えているということになる。割れた断面はぎざぎざで、厚みは感じられない。薄氷一枚に隔てられて、向こう側に無の空間が広がっている。
 指を伸ばしてみたい衝動に駆られる。だけど、師匠に禁じられている。
 あくまで、特性を学ぶこと。実践だけを許可されているのだ。
 そこから先は、また師匠の教えを仰ぐことになっていたのだったが……。
 この場合、何が正解になるのだろう?
 開くことができたので、反対の手順でまずは閉じる。
 湯気が部屋のなかに広がるにつれて、じくじくと、氷が溶けるように空間の断面が閉じていく。
 だけど、この子は?
 私があれこれやっていたのを眺めていたらしい彼と目が合った。
 まさか、あの中にまた放り出す訳にもいかない、よね……?
 やっぱり状況がよくわかっていないみたいだ。ぽかんとしている。
 だけど、初めに見たときのような不安そうな表情は消えていた。
 せめて、言葉が通じればなぁ……。
 と、口元に手を当てて思案しているうちに部屋は暖まり、空間もすっかり元どおりとなった。
 窓の外は相変わらず雪が降りつづいていた。
 しゅうしゅうという湯気の音に混じって、聞き慣れない音が聞こえたのはそのときだった。
 ことばにするなら『ぽきゅ』というような感じの、丸っこくて、やわらかそうな音。
 音の鳴った方に向いて、窓の外から視線を移すと、彼がなんだかくたっとしていた。
「大丈夫?!」思わず駆け寄る。
 クッションの上で全身を脱力させた彼のお腹のあたりから『ぽきゅ、ぽきゅるる……』とその音は鳴っていた。
 これは、素直に解釈すれば、たぶん空腹ということになる。
「ちょっと待っててね」
 私は下の階で温めたご飯を茶碗によそい、おかかと海苔と醤油をかけてくると、やかんのお湯を注いだ。さっとできるような料理のスキルは私にはない。申し訳なく思いながら、できあがった即席のお茶漬けを彼の前に差しだす。
 容器から立ち上る湯気に、彼は顔を近づけた。そしてクンクンと匂いをかいでいた、そこまでは人と同じだったのだけど。
 彼は口ではなく、おでこの辺りを器に近づけたのだった。
 するとフワフワーっと湯気が、頭の上に付いている例のツノ……バーコードをピッとするやつの先端に吸い込まれていく。
 私が呆気にとられている隣で、彼はほうっと息をついて、にっこりと微笑んだ。

 とりあえず、師匠には書信を送った。
 遅くとも今月中には返事がくるだろう。
 むしろ気が重いのは協会の方への連絡だった。
 こういった場合、むしろ先方が事態を把握している可能性はじゅうぶん考えられる。
 よって報告は優先的にすべきであって……私は師匠から教わった内容を思いだす。
 文書化されたマニュアルがないのがこういうときに不便だが、そういう慣例なのだからしょうがない。
 師匠は確か、こう言っていた。
「協会には各々の瑠璃珠に関するあらゆる成果物の提出が定められている」
 今回の場合、私のつくったもの。
 開いて閉じた空間の亀裂、その操作法。
 ここまでが私の成果物となる。
 そして師匠はまた、こうも言っていた。
「協会は頭の中までは管理できない」
 つまり成果物を提出さえすれば、どのような考えで行動しようとも構わないと私は解釈した。

 この子はたまたま、あの中にいた。
 そして今はここにいる。
 ただ、それだけだ。

 湯気だけ吸い込んだあと彼は『ぷわわ』と、シャボン玉のような吐息をついて、穏やかな表情で眠りはじめた。脱力した全身をクッションに沈みこませて、ぷわ、ぷわわとシャボンの息を浮かばせている。透き通った空気の玉が、彼の口から浮かび上がっているのがなぜかわかる。私は目を瞬かせるけど、それは目で見ているのではなくてこころで感じているのだった。
 ふう、と小さく息を吐く。
 すっかり冷めたお茶漬けをささっと食べながら考える。
 落ち着いている場合じゃない。
 あの日、私が初めて空間を割った日。
 自らつくった亀裂に落ち込んで、震えていた私の元に、師匠は現れた。
 一時間も経たずに私の存在は捕捉されたのだった。
 えいやー! っと私はキーボードを叩く。
 デジタル化された書面はなんとなくそれっぽく、その実、中身も何もあんまりなく。
 良い感じにあれしたらこうなってなんやかんや、できたものがこちらになります。
 ただ報告を行ったという事実のためだけの文書を、
 送信!
 協会の方へ、やるべきことはやった。
 私が義務を果たしたささやかな達成感を覚えると同時に。
 『√‾∨ー\!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
 ガラスを引っ掻くようなノイズが頭のなか一杯に響き渡った。
 内側からの圧力に、頭が割れるイメージが脳裏に広がる。
 本能的な恐怖を覚えて、両手で頭を抱えながらうずくまる。
(寝不足だったから? ここ最近は、ちゃんとした食事をとっていなかった。あの空間に接触してしまったのが良くなかった……?)
 病気……もっとストレートに『死』の気配を感じる。
 そんな訳ないのに。私は生きてるし、明日も明後日も当たり前に生きつづけるはずなのに。
 一秒後には死んでいる気がする。

 いやだ。死にたくない死にたくない。
 バリン! と音がして、割れた。
 私の頭がくだけてしまったのだと思った。
 思わずぎゅっと目をつぶって、一秒、二秒、三秒……心臓の鼓動が時を刻んでいった。
(生きてる……)
 私は、左右の瞳をそっと開いて顔を上げた。
 いつもと変わりない、私の部屋。窓の外は雪景色。
 あたまのうえには闇がひろがっていた。
 ちょうど天井の白い壁紙があった高さに、深い黒色がゆらめいている。
 まるで、夜の海のような……。それは、今にも「ずん!」と質量をもって落ちてきて、私を圧し潰すかのようだった。すくむ足を無理やり動かして、這うようにして部屋の隅の方へと逃げる。だけど無駄だった。闇が天井のふちから壁をつたって降りはじめたのだ。あっという間に天井と同様に壁面も真っ黒の闇に覆われてしまった。
 六面体の形状の部屋のうち、残されているのは床面だけになった。
 私と、あの子がいる。
 すぐに気づく。
 この闇は、彼を狙っている。
 四方の隅からぬるぬると、蛇のように細くなった闇が伸びてくる。
 一番近かった一本が彼の足に絡みつこうと身をくねらせた。
 私は咄嗟に彼の身体を抱き寄せ、部屋の中央で。

 今日あった出来事が脳裏に走りぬける。
 頭のなかは、自動的に再生するその短期記憶のデータでいっぱいになっていて、だからこの状況においても、もう恐怖や焦り、どんな感情も発生していなかった。
 完全なるフラット。無心。
 いつも、何度も繰り返してきた作業。
 私の身体。私の精神。全身全霊の最もあるべきかたちを、私は自然に再現していた。
 息を吐く。
 呼吸は音を生じ、世界に言葉を。空気に色彩を。
 発した珠は円く、空間と調和してひろがった。
 今度は、割れることはなかった。

 ふと、身体に感覚が戻っていることに気づく。
 ストーブの効いた暖かい温度。湯気のもたらすほんのりとした空気。
 穏やかな、冬の日の午後。
 窓の外は雪景色。
 見上げると白い壁紙の天井が、いつもと変わらずそこにあった。
 ぷわと小さくあくびをして、彼が目を覚ました。
 不思議そうに私の顔を見つめている。
 まるで今日この世界に生まれたみたいだった。
 小さくて愛しい命を、私はそっと抱きしめた。


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エピローグ

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